日本の歴史を知る上で「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)とは?」と疑問を抱く方は少なくありません。
本地垂迹説とは、神仏習合思想というもので、平安時代の後期に発展したものです。
「本地垂迹説とは?」「その考え方とは?」「唱えた人は?」の疑問に一つ一つ答えていきます。
誰の説でどんな信仰なのか、日本の歴史を読み解く中でも必要な情報になります。
目次
神仏習合思想「本地垂迹説」とは
「本地垂迹説」の読み方
本地垂迹説の読み方は「ほんじすいじゃくせつ」です。
「本地垂迹説」の考え方や意味
本地とは、菩薩の本当の姿を現します。
垂迹は、そのまま「迹を垂れる」という意味です。
これらを合わせて、神仏が現れるとされます。
考え方については主に3つあげられます。
仏菩薩が本来の姿であり、日本の神は仮の姿だという考え方です。
(例)
仏菩薩
・釈迦如来
・阿弥陀如来
・大日如来
・薬師如来
・地蔵菩薩
日本の神
・日枝の神
・八幡神や熊野権現
・天照大神
・牛頭天王
・愛宕権現
このような考え方が広がったことで、神と仏や菩薩が一体となり、一緒に祀られるようになったのです。
「本地垂迹説」を唱えた人
本地垂迹説をどんどんと広めたのは平安時代や鎌倉時代の仏教僧侶です。
では最初に唱えたのは誰なのでしょうか。
それは恵亮の表として知られているようです。
また、本地垂迹説を唱えた人で有名なのは、平安時代の慈覚大師円仁、鎌倉時代の法然や親鸞です。
本地垂迹説を支持することで、全国各地に広めた僧侶たちです。
「本地垂迹説」の歴史
本地垂迹説は平安後期に発展したもので、全国の神社に本地仏が確定しましたが、明治時代になると政府による「神仏分離令」の発令によって衰退しました。
発展したのは平安時代ですが、成立したのは奈良時代だといわれています。
爆発的に広まった本地垂迹説ですが、鎌倉時代には反本地垂迹説も現れたようです。
「本地垂迹説」と「神仏習合」の違い
似ているものの明確に異なる「神仏習合」との違いも気になります。
本地垂迹説は神仏習合の一形態。
主に神と仏の関係性にスポットをあてた思想である一方、神仏習合は神道と仏教が融合することで共存する現象を大きく捉えています。
神仏習合を細かく分けていくと、本来の姿や仮の姿という概念に辿り着けます。
占い師sakuraのワンポイントアドバイス「仏教が日本に根付くきっかけになった本地垂迹説」
それまでの日本の宗教文化に対して、多くの視点や考え方を与えたもの。
本地垂迹説は、仏教の教えを分かりやすく広めるために工作したものだといわれることもあります。
明治時代に発令された「神仏分離令」によって衰退しましたが、実はまだその名残を残している神社などがありますよ。
気になる方はぜひ参拝してみてください。