葵祭ってどんな祭り?起源と歴史や斎王代と葵祭に縁のある食べ物とは
占い師 聖子
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葵祭りは京都を代表するお祭りです。日本三大祭である祇園祭と並ぶ京都三大祭に数えられています。

葵祭は、日本の歴史にも深く関わっているお祭なので起源や歴史などを知ることで見えてくるものも多いでしょう。

平安装束を身にまとった人たちが行列をなして歩くという光景を見ることができます。その様子は、まるで平安時代にタイムスリップしたかのようだという声も多いです。

年に1度、葵祭のために京都へ旅行してみるのも悪くないでしょう。5月の気候が良い時のお祭りなので京都らしさをより楽しむことができるはずです。

葵祭りとは?起源や祭りの意味について解説

葵祭はどんな祭り

葵祭は、京都を代表とするお祭りです。平安装束を身にまとい藤の花で飾られた牛車や輿にのった斎王を中心とした行列が御所から下鴨神社と上賀茂神社へ巡行していきます。

その様子が平安時代の王朝絵巻そのものであると言われています。なので、まるで平安時代にタイムスリップしてしまったかのような感覚に陥ってしまいます。

その様子を見たいがために京都近郊だけでなく、全国からこのお祭りを見るために京都へ訪れる人も少なくありません。

元は、洪水や落雷などの天変地異を避け京都の繁栄を願うためのお祭りだったと言われています。

葵祭の始まり

葵祭りは、京都の先住民と言われている賀茂氏のお祭でした。今の上賀茂神社と下鴨神社で地元の人たち五穀豊穣が願われていたお祭りが元になっています。

現代と違い、災害を予測することもできずそれを避けるという願いがこめられていたのかもしれませんね。

そのうち、京都に平安京が遷都されてきたことにより、国をあげて行うお祭りへとなりました。

その変化によって、葵祭りの原型となった賀茂氏のお祭りは近隣の違う神社で行われるようになったそうです。

おかげで、葵祭は地域のお祭りでなく天皇も参加するようなお祭りへとなっていったのです。

賀茂神社

賀茂神社は、下鴨神社と上賀茂神社を指します。元々は、その一帯に住む賀茂一族のための神社だったとも言われています。

京都に都が遷る前から賀茂川上流に住む賀茂氏が自然の恵みをもたらす水神や雷神を守り大切に扱いながら稲作などに励んでいたそうです。

現代のように治水の技術が不十分だったこともあり、水害などが多かったのかもしれませんね。

それを防ぐために始めたお祭りだと考えることができます。

現代の上賀茂神社は、縁結びや恋愛成就、災厄払い、方除などにご利益があると言われています。

そして、下鴨神社の方は恋愛のパワースポットとして若い女性に人気があるスポットへと変化しました。

どちらも人気観光スポットでもありますよね。下鴨神社では、レースの可愛いお守袋のお守りが授与されたりと女性の楽しめるスポットです。

葵祭の象徴である植物「葵」とは

葵祭りの葵は植物の名前です。一般的には双葉葵ですが、上賀茂神社では二葉葵と書きます。葵はウマノスズクサ科の多年草植物となっており、木陰で育つ植物です。

平安時代は、花と言えば梅の花を指し、祭りと言えば葵祭のことを言ったそうです。葵は、葵の植物をさしています。

元は、祭りに参加する人の衣冠や牛車に葵の葉っぱが飾られたことが起源と言われています。

神社の境内もたくさんの葵の葉っぱで装飾されていたそうですよ。葵祭りでは、葵だけでなく桂という植物も使われています。

ちなみに、桂は高さが30mほどの植物です。葉が黄緑色のハート型に似た円の形をしています。

葵祭で使われることもあり、加茂桂という名があります。桂は京都の地名にもありますよね。

装飾には葵桂をという葵の葉と桂の枝葉を絡ませてつくられたものを使います。葵を2連4連と重ねていくと大きいものを作ることもできます。

装飾の場所によって大小様々な葵桂がわけられて使われるのです。そんな葵には雷よけという意味あいがあります

平安時代の葵祭

葵祭りが始まったのは平安時代であると言われています。厳密には葵祭りの元になった賀茂氏による地域のお祭りは平安京が遷都される前から行われていたそうです。

そのお祭りの起源は飛鳥時代と古く、風水に基づいているそうです。その時代、作物の凶作に見舞われてしまい、占ったところ賀茂の神のたたりだという結果になったそうです。

その結果から賀茂で馬に鈴をつけて走らせ祭礼を行ったところ劇的な効果があったので、それ以降は毎年お祭りが行われるようになりました。

そして、時代が流れ都が平安京に遷都されたこともあり葵祭が勅祭となり国をあげて行うお祭りになったのです。

最終的には宮廷貴族にとっての祭りの代名詞となるほどの大きな祭りへと変化していきました。

源氏物語の中にも葵祭りは登場しますよね。それくらい、当時の人たちにとっては当たり前のお祭りだったということが言えますね。

江戸時代の葵祭

葵祭りは、時代の混乱によって中断されてしまいました。国をあげて行うお祭りは、盛大な分だけ費用もかさみ戦乱の世では続けることが困難だったのでしょう。

でも、中断されて約200年後の江戸時代に霊元上皇の手によって再興されました。もちろん、実際に手を尽くしたのは下鴨神社や上賀茂神社の祠官です。

既に斎王の奉仕もなく荘園からの収入もなかったので平安時代のような盛大なお祭りを行うことは困難でした。

祠官の熱意と公家の理解により幕府からの協力を得て、千石の下行米を当てて葵祭が行われるようになったのです。

しかし、しばらくすると事実上東京へ首都を移すということが行われました。今でも笑い話の1つとして東京への遷都は公式ではないという話が出てきますよね。

首都機能が京都から東京へ移ったことにより京都は一気に衰退をしてしまい、葵祭りも勅祭扱いされなくなってしまい続けることが再び困難となってしまいました。

そんな中、再び上賀茂神社と下鴨神社の祠官たちが力を尽くし葵祭を復興させることになったのです。

今度は、以前と違い平安時代と同じく斎院の復活も含めて祭りを再興させることに手を尽くしました。

最終的に元の形として復活することができたのは対象15年と結構時間がかかりましたが、すぐに第二次世界大戦がはじまってしまったので再び中止に。

でも、終戦後に葵祭行列協賛会と関係者の努力により昭和30年頃に現代の形としての葵祭が再開されました。

この最後の再開の時に今日みる行列の姿が完成したのです。斎王代以下の女人列が加わったのもこの頃らしいです。

何度も中断されても復活するということは、このお祭りを待ち望んでいる人が多かったということでもあるでしょう。

葵祭にまつわる5月のスケジュール

葵祭りは、毎年5月15日です。葵祭当日に先駆けて、前儀として様々な神事が行われます。5月3日に流鏑馬の儀式が行われるのが最も早いと言えます。

流鏑馬は少し占いじみた面もあり興味深い行事でもあります。

次に5月5日に歩射神事が行われます。こちらは、行列の際の道を祓うという意味あいの儀式となっています。

その後に斎王代と女人列に参加する女人の禊の儀式である斎王代禊の儀が行われます。

その禊の神事は、上賀茂神社と下鴨神社が隔年で交代して行います。

祭りに奉仕する斎王代と女人列の40人が御手洗池などで禊をするのです。そして、葵祭が始まる直前である5月12日に上社の御阿礼祭と下社の御蔭祭の神事を行います。

下社の御蔭祭の方は昼間に行い、上社の御阿礼祭は真夜中に行われます。

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葵祭の祭儀についてもっと知りたい!

前儀の流鏑馬

葵祭りの本祭りの前の儀式として流鏑馬があります。流鏑馬神事は、毎年5月3日に下鴨神社で行われます。

糺の森の真ん中にある全長500mの馬場、3か所の的に公家装束の射手が馬上勇ましく駆けながら陰陽の掛け声と共に矢を放ちます。

束帯などの公家装束や机上のまま紅白の神禄を受ける儀などの様子も華やかです。

その矢が的に当たれば、豊作や所願成就という意味があり少し占いのような側面を持ちます。

そして、打ち抜いた的板は縁起物と言われています。次々と馬が走りだす様子は活力に溢れていると言えます。

的に矢を当てるという行為が運試しのようにも見えますが、葵祭が平穏無事に行われるよう祓い清めの神事です。

斎王代禊の儀

斎王代禊の儀は、現代では下鴨神社と上賀茂神社で隔年に行われています。元々は、鴨川の河原で行われていたそうです。

鎌倉前期に斎院の廃止と共に斎王代の任命も中断してしまいましたが、昭和31年に斎王院が復活したことで再開されました。

日時は、ほかの前儀式のように特定の日が決まっている訳でなく5月初旬に行われています。御手洗川のほとりで斎王代と女人列が清流に臨んで御祓いを受けます。

この時、斎王代は華やかな十二単に身を包み、女人列も装束に身を包んでいるのでまるで王朝絵巻のような景色を眺めることができます。

この禊の儀を終えると、いよいよ葵祭です。ちなみに、下鴨神社の御手洗池での禊の儀式は7月の土用に一般の人が参加する祭りも行われています。

歩射神事

歩射神事は、5月5日に下鴨神社で行われている祭りです。葵祭の沿道の邪気を払うために行う弓神事なのです。

現在は、小笠原一門の奉仕により楼門内の祭庭で大的に向かって次辻と矢を放つ大的式と小笠原家当主による屋越の神事が行われています。

風を切り、音を発することが魔障を退散させると言われています。古くから邪気を払う行事として行われ、静寂さの中に神気みなぎる伝統行事です。

賀茂競馬

賀茂競馬は、5月5日に行われる儀式です。賀茂競馬は、賀茂大神の出現の託宣に馬を走らせて祭りを行ったということが元になっていると言われています。

平安時代に盛んに行われるようになり、今日まで絶えることなく続けられている儀式なのです。

賀茂皇大神は、競馬の守護神で上賀茂神社は競馬の発祥の地であるとも言われています。鎌倉時代は、競馬の制度も調い全国20か所の荘園を「競馬の料」と定めていたそうです。

この競馬の料から一頭ずつ馬を差し出して競馬を行っていたそうです。賀茂競馬は荘園より献進された野馬を調教して良き乗馬に仕立て上げたことから「賀茂悪馬流」という異名がついています。

御陰祭

御蔭祭は下社である御蔭神社で行われます。御蔭神社は下社より東北の比叡山西麓に位置します。

こちらのお祭りは下社の祭りと違い昼間に行うお祭りです。

毎年、ここで新しく蘇られる祭神の荒御魂を御荒木に遷し、それを榛葉に乗せて奉り氏子地域を巡幸し下社に戻り表参道の切芝で東遊びなどを奏します。

その後に、若々しい神霊を斎いこめる儀式です。この儀式において100余人にものぼる奉仕者全員が葵桂をかざします。

桂の小枝に二葉葵を添えひもでくくります。下鴨神社では毎年4000本が奉納されています。まさに葵のお祭りと言えますね。

上社の御阿礼神事

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上賀茂神社の祭祀の中で最も古く、厳重な神事です。阿礼は、生まれるという意味を持ち神霊の出現を意味しています。

御阿礼祭は、現代と過去では行われる場所が違ったようです。過去は、上社の真北3キロの神山の頂上であったと思われる場所で行われていたと言われています。

この山は今も神聖な場所とされており、神職以外の人物は禁足地となっています。そして、現代はより上社に近い丸山の森の台地で行われています。

その一角の御阿礼所に御阿礼木で四間四方の囲いを作り、休間木を日本交差させます。ここで新しくよみがえった別雷神の神霊を割幣の榊に移し、それを捧持して上社の本殿で若々しい神威をご神体に込めるのです。

この神事は真夜中に行われるということもあり、全く火をつけずに神職のみで厳粛に行われています。

なので、詳細は神職のみにしかわからずミステリアスな神事でもあります。静かな暗闇において神事を行うという儀式は日本の祭りの原型を伝えているようでもあります。

葵祭の宮中の儀

葵祭 宮中の儀は、当日1番に行われる儀式です。天皇が京都の内裏におられた時に清涼殿で飾馬と出立の舞をご覧になってから勅使に祭文を賜った勅使発遣の儀式でした。

明治以降は、天皇が京都から去られたこともあり天皇が特使に祭文を賜るということが無くなりました。

その代わりに近衛使や内蔵使いが朝に小御所の南ひさしに集まり奉行から祭文とお供えを賜る儀式が行われるようになりました。

勅使が御所から直接出立する例は、この葵祭以外ではなかったそうです。葵祭りと聞いてイメージする行列は、宮中の儀の後に行われる儀式のことです。

なので、現代では、宮中の儀よりも路頭の儀や社頭の儀の方がメインになってきているのかもしれませんね。

葵祭 路頭の儀

葵祭の路頭の儀は、宮中の儀の次に行われる儀式になります。この儀式は、行列が下鴨神社と上賀茂神社を巡拝するのです。

賀茂の競馬の馬に先導され、馬に乗った検非違使など冠に装束を身に着けた官人の列や勅使の列がどんどん続いていきます。

藤の花を華やかに飾った美しい牛車に紺布を張った大きな傘に造花を盛った風流傘が風に揺れている様子は艶やかです。

牛車にもいろいろあり、最高級は唐車と呼ばれ葵祭では勅使用の牛車がその唐車にあたります。

斎王代用は八重車と呼ばれ少し下のクラスになります。見た目と違い、乗り心地はそこまで良くないそうです。

風流傘は、毎年取り替えられ袴に同じ造花を付けた取捨舎人の4人が2人ずつ交代して持ちます。

平安時代そのものが表現された行列は、まるでタイムスリップしたかのような風景を繰り広げています。

この光景は平安絵巻を例えられることも多いでしょう。なかなか見ることができない風景であると思います。

葵祭の社頭の儀

葵祭の社頭の儀は、最後に行われる儀式です。上賀茂神社と下鴨神社の社頭で行われます。平安時代のような優雅な雰囲気の中で東遊の舞や走馬なども催されます。

行列の通過には40分ほどかかることもあり、御所と下鴨神社には特別観覧席も設けられています。

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葵祭の主人公「斎王」「斎王代」について

斎王とは

斎王は、伊勢神宮や賀茂の神社に奉仕していた未婚の内親王のことを指します。その斎王の代わりが斎王代なのです。

字のままの意味ですよね。その斎王代は、葵祭りの主役です。葵祭が国のお祭りであった頃は賀茂の神社にも斎王がおられたそうです。

その斎王は葵祭に奉仕され、祭りの時には出御されたそうです。この時の斎王の華やかな行列を再現したのが今の葵祭なのです

斎王代は未婚なのにお歯黒?

斎王代がお歯黒にしています。日本では一般的に既婚者がお歯黒にし、未婚者はお歯黒にしないという風習があると思います。

でも、その風習は江戸時代頃に出来上がったものなので平安時代に原形が出来上がった葵祭りでは少し違った意味を持ちます。

平安時代におけるお歯黒は貴族の女性が成人になったら行う儀式でした。そして、女性だけでなく、貴族の男性にも行われていた儀式だったのです。

なので、未婚や既婚を判別するための目印のようなものでなく特権階級である貴族である目印さったと考えた方がわかりやすいでしょう。

ちなみに、特権階級がお歯黒にするのは聖徳太子の時代には既に行われていたという記録が残っています。

葵祭において、斎王代がお歯黒にするのは特別な存在であるということを区別するためのものであったと言われています。

そもそも斎王代になる条件が未婚なので斎王代が既婚であることはないのです。条件が少しずつ変化していっても未婚という条件だけは何年も変わっていないみたいです。

斎王代を務める条件とは?

斎王代を務める条件ですが、昔は未婚の内親王に限られていたそうです。ただ、最近は皇室の人も減り、東京へ移動して行ったこともあり条件はかなり緩くなっています。

現代では、京都在住の未婚の女性から選ばれています。ただし、京都在住の未婚の女性であれば誰でも良いという訳ではありません。

京都在住の未婚の女性であることが前提とあり、家柄が良いということも必須条件となっています。

ただし、公募されている訳でもなく選定基準も公表されていません。とりあえず、斎王代になるには支度金と呼ばれる大金が必要なこともあり一般家庭の人では無理だと言えます。

その支度金は2,000万円にもなると言われています。確かに2,000万円を用意できるような家庭は限られているはずです。

その上、お金が用意できれば何でも良いという訳でもないはずなので何かしらのつながりを持っていないと斎王代になることは難しいと言えるでしょう。

そういうこともあり、母娘や姉妹など同じ家庭から選ばれることも多いそうです。ちなみに、2,00万円の内訳は衣装代やクリーニング代から寄付金まで含まれていると言われています。

確かに現代でもこんなにお金が必要なのであれば、平安時代はもっとお金が必要だったかもしれませんね。

女人とは?

葵祭りの主役は斎王代です。その斎王代の後にいる女性たち40人のことを女人列と呼びます。

斎王代と近衛以外に関しては、葵祭関係者による推薦だけでなくアルバイトとして募集もされています。

京都大学や同志社大学など京都の大学を通じで募集されているので大学生は要チェックですね。

葵祭以外の京都四大行事って?古都ならではの風情ある行事

五山送り火

京都では、葵祭り以外にも風情ある行事が多いです。その一つに五山の送り火があります。五山の送り火は、お盆の終わりの8月16日に行われる儀式です。

一般的には家の前で火をつけて、その火で先祖をあの世に送るというのが送り火ですよね。五山の送り火は京都の山を燃やして送り火をつけます。

山に大文字を描きながら炎を付けるので大文字焼きという呼び方もありますが、大文字焼きは京都に限らず行われているので京都では五山の送り火と呼びます。

この送り火は、当日の午後8時より開催されます。東山・如意ヶ岳の「大」を始めに松ヶ崎西山と東山の「妙・法」。妙見山と船山の「舟形」、金閣寺付近大北山の「左大文字」、嵯峨の曼荼羅山の「鳥居型」と約20分程度の時間を費やして火をつけていきます。

大の字の火床は75基で構成されています。火床は、菱形に削った大谷石で土の中に埋め込まれているのです。

この送り火は仏教的な行事でもあります。13日に迎え火で帰ってきた先祖を送り出すのです。

先祖を送るという意味が強いのですが、夏の終わりを感じさせる行事でもあり少し寂しいような気持ちで眺めている人も多いかもしれません。

この五山の送り火ですが、実は誰がどのような経緯で始めたか?ということはわかっていないそうです。

起源がわからない儀式が何百年経っても変わらずに人々の生活になじんでいるのは不思議ですよね。

祇園祭

祇園祭は京都の夏の風物詩ですよね。もはや、京都を含めた関西だけのお祭りでなく日本三大祭りの1つとされています。

そんな祇園祭りの起源は諸説ありますが、京都に疫病が流行した時に祇園の神を迎えて祀り、京都の男児が神輿にのって厄災の除去を祈ったことに由来すると言われています。

それから徐々に規模が大きくなり、にぎわうようになったそうです。室町時代になると山鉾が登場し、町々で趣向を凝らして作るようになったそうです。

応仁の乱の前は既に30基程度の山鉾があったそうですよ。そんな祇園祭は7月1日の吉符入りから始まり、月末の夏越の祓まで各種行事が繰り広げられます。

その中でも1番有名なのが14日から16日の宵山でしょう。祭りに提灯が入り、祇園囃子が流れ始めると見物人の人波が押し寄せてきます。

そして、17日に山鉾巡行が行われます。現在、くじ取らずと言われ、先頭を走る長刀鉾のみ稚児を乗せることができます。

山鉾には色々な装飾がなされていますが、特定の国の文化や宗教に限っていません。聖徳太子、観音様、天神様、神話や中国の故事に基づいた装飾品などバリエーションも豊富です。

それはあらゆる神々が集まって祇園の神をたたえて、あらゆるものを受け入れるということを表しているのかもしれませんね。

祇園祭は、みんなが思っている以上に開かれた祭りだったのかもしれません。最近は、祇園祭にちなんだ和菓子なども増えてきており楽しみの幅も広がってきています。

時代祭

時代祭も京都を代表する祭りの1つです。時代祭は、10月22日に京都御所から平安神宮にて行われます。

時代祭もその名前の通り時代を感じる祭りです。葵祭りと同様に平安装束を着た人々が行列を練り歩くのでタイムスリップしたかのような風景を見ることができます。

桓武天皇を祭神とした平安神宮の創建と平安遷都1100年を祝う行事として明治28年に始まったと言われています。

思ったよりも歴史が短いお祭りです。明治維新により衰退してしまった京都の町おこしの事業の1つとして平安神宮が創建されたそうです。

初回の時代祭は平安神宮にお参りする姿として行われましたが、その後は形を変えました。京都御所から桓武天皇と孝明天皇が市内を巡行して平安神宮へ行くという形になりました。

市民の繁栄の様子をご覧になるという意味もありますが、神幸列にお供するというのが時代行列の本来の姿となります。

現在は、時代と名前通りに明治維新、江戸、安土桃山、吉野、鎌倉、藤原、延暦と7つの時代を18の行列にわけて1列ずつ担当しています。

さらに、江戸貴婦人列、中世貴婦人列、平安貴婦人列は京都の5花街が輪番で奉仕しています。

のべ2000名以上の人が参加する大きな行列です。その行列の中でも人目を惹くのは、その衣装や調度品などです。

京都の工匠や染色の指揮者が研究や考証を重ねたものなので各時代の素材を使い、現代によみがえらせたものであると言われています。

一目で京都の文化や歴史を理解することができるお祭りとなっていることもあり京都の外からの観光客も楽しみにしているお祭りです。

葵祭や賀茂神社にまつわる食べ物

復活!申餅

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申餅は葵祭の名物として食べられてきた和菓子です。途中で葵祭が中止になってしまったことなどもあり消えてしまった名物でした。

でも、平成に入って復活したのです。今は、葵祭の期間に限らず下鴨神社の境内にある「さるや」で食べることができます。

葵祭は、事前の儀式も含めると5月の一か月もの期間にもわたる大きなお祭りです。その中の申の日に食べるのが申餅でした。

申餅は、申という字がついていますが去るという意味をかけて無事息災を願って食べられていたそうです。

当時の申餅も貴族だけの食べ物でなく、広く庶民に食べられていた和菓子です。申餅の作り方は、下鴨神社の宮司代々に口伝で伝えられてきたそうです。

申餅は、小豆の色をした和菓子です。その色は、小豆のゆで汁由来のカラーとなっています。そして、伝統色でもあり「はねずみ色」と呼ぶそうです。

その色は、明け方に空が薄茜色になる様子をイメージした色と言われており、命が生まれる瞬間に例えられています。

申餅の材料は、丹波産の小豆と餅米です。中身は小豆が粒の形のまま入っています。なので、食感を楽しむことも可能です。

そして、気になる味わいは甘すぎず柔らかな甘みを感じることができます。厄払いの和菓子なのでそれくらいがちょうど良いのかもしれませんね。

長らく絶滅していた申餅ですが、氏子である近所の和菓子屋さんの努力によって復活させることができたそうです。

やはり、お祭りというのは人々の生活に密接に関わっている行事なのかもしれませんね。人が祭を作るということがよくわかるエピソードです。

みたらし団子

みたらし団子は、今や日本中で食べられている和菓子ですよね。特に特別な日に食べるお菓子という訳でもなく、日々のおやつのバリエーションの1つになっているでしょう。

そんなみたらし団子ですが、始まりは下鴨神社での御手洗祭で氏子が作って供えたことらしいです。

そして、みたらしは、みたらしの池に湧いている水のあぶくをかたどったものと言われています。

実は、この水のあぶくですが土用の日が近づくとブクブクとあぶくを浮かべ始めるという不思議な場所でもあるようです。

ほかにもみたらし団子の1串における団子の数が5つというのも理由があるそうです。後醍醐天皇が行幸した時に池に浮かんだ1つの泡をすくうと、さらに4つ浮かんできたという話が元になっているという説が1つあります。

あとは、みたらし団子の形が五体と言われる人間の姿をかたどっているという説などがあり意外とミステリアスな食べ物なのです。

この2つの逸話が元になっていることから下鴨神社近くのお店のみたらし団子は4つをくっつけて刺し、1つだけ少し隙間を持たせてあります。

現在では、関東では4個が主流で関西では当時の流れを引き継ぎ5個の団子が串に刺さっていることが多いです。

味の方も地域でバリエーションが出てきており、大手コンビニのみたらし団子は地域によって少しずつ味付けに変化をつけて販売されています。

そして、御手洗祭と言えば、7月の土用の日に行われる行事です。葵祭であれば、前儀式として斎王代と女人が御祓いをする場所でもあります。

一般の人は、御手洗祭の時に下鴨神社へ行き足を御手洗池につけましょう。御手洗池に足をつけて、無病息災や厄除け祈願を行います。

まめ豆茶

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まめ豆茶も下鴨神社の名物です。今は、前述の申餅と同じく神社境内の「さるや」にて提供されています。

まめ豆茶の豆も申餅と違い黒豆が使用されています。黒豆を炒って作られたお茶になります。

元は、申餅のように庶民が食べていたものでなく神職がお社に籠るときに飲んでいたお茶らしいです。

黒豆が入った急須にお湯を注ぐと入り日のカラーである薄紫色に器が染まります。申餅と同じく、太生命の誕生と永遠をイメージしているとも言われています。

太陽が出て沈むという現状こそが命の繰り返しなのですよね。そんな信仰がされていたこともあり、まめ豆茶はとても大切にされてきました。

不老不死のお茶と言われていたそうですよ。不老不死は言い過ぎかもしれませんが、黒豆は体を温めてくれる効果があるということもあり健康や美容に良いと言われていますよね。

そして、まめまめしくいつまでもという願いが込められた縁起の良い食材でもあります。、黒豆を妙って作られたお茶は、潔斎期間中の神社神官の飲み物であり、不老長寿の良薬とされてきました。

このまめ豆茶の黒豆は、お茶を飲み終えた後に食べることができます。小皿がセットになっているので黒豆を取り出します。

そこに添えられていた塩をかけて食べるのです。香ばしい黒豆のお茶と甘さ控えめな申餅の組み合わせがちょうど良いと観光客にも評判です。

自宅で手軽に飲めるタイプのまめ豆茶も販売されています。ほかにもメニューがどんどん増えているので1度「さるや」に足を運んでみてください。

氷室

葵祭が最初に行われた頃の日本には冷蔵庫なんてありませんでした。そんな時代でも氷を保存する場所があったのです。

その場所が氷室と呼ばれる場所です。氷室に関しては京都以外の場所にもあります。そして、葵祭の舞台にもなっている下鴨神社大炊殿の横にも氷室がありました。

現代のように好きな時に氷を作って保存しておくということはできません。外が寒くなる冬に氷を作っておき夏場まで氷室で保存しておくのです。

特に氷と葵祭は関連性がないのですが他に下鴨神社で行われる真夏の伝統行事に氷の朔日と呼ばれているものがあります。

氷の朔日は、旧暦でいう6月1日を指し氷室を開く日のことです。冬から夏まで溶けることなく、氷室で大切に保管されていた氷は非常に貴重なものでした。

溶けたら次の冬までを作ることができないとすると責任重大ですよね。

だからこそ、その氷を宮中へ献上をしたりしていました。また、氷を口含みながら無病息災を願うというお祓いもあったそうです。

さすがに氷室の氷ではありませんが「さるや」で鴨の氷室の氷という名のかき氷も提供されています。

小豆と抹茶がトッピングされており、京都らしさも感じさせる一品となっています。京都の暑い夏にはちょうど良い甘味ですよね。

占い師秋桜のワンポイントアドバイス「まるで平安絵巻!豪華絢爛な葵祭」

秋桜
葵祭りは、京都を代表するお祭りよ。平安時代の装束を着た人たちが行列をなす様子なんてすごいわよね。

教科書の絵でしか見たことがない人も多いと思うわ。さらに、真夏の祇園祭と比べても5月と比較的まだ過ごしやすい時期の開催だから見物にも持ってこいよね。

平安絵巻のような景色を眺めることができるなんて素敵じゃないかしら。まるで自分がタイムスリップしてしまったように思えてくるはずよ。

京都の人にとっても大切な祭りだけど、今は日本中の人が注目しているお祭りでもあるわよね。

京都へ行くときの目的の1つにしてみるのもおすすめよ。また、下鴨神社で葵祭りにまつわる和菓子や飲み物を楽しむことができるわ。

現実を忘れて平安時代に想いを馳せてみるのも悪くないわよ。

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