三社祭りと言えば浅草のお祭りです。浅草という場所を知っていてもお祭りのことを知っている人は少ないかもしれません。
東京の人でも地元じゃないとそこまで興味もないかもしれませんね。三社祭りは、江戸三大祭りの1つなのです。
三社祭りは、神輿がメインの熱いお祭りです。今では東京の町を神輿で練り歩く祭りはほとんどないのではないでしょうか?
今回は、三社祭りの見どころだけでなくタブーについても紹介します。三社祭りや舞台となる浅草神社に興味がある人は出かけてみましょう。
目次
三社祭は江戸三大祭のひとつ!
日枝神社の山王祭
山王祭(さんのうまつり)は、江戸三大祭の1つです東京の千代田区にある日枝神社のお祭りなので、正式名称は日枝神社大祭です。
さらに、京都の祇園祭りや大阪の天神祭りと並ぶ日本三大祭りと呼ばれています。
現在は、隔年の6月中旬に行われていますが、明治時代より昔は旧暦の6月15日に毎年行われていたそうです。
隔年である理由は、同じく江戸3大祭である神田祭と交互に開催されるかららしいです。交互ということもあり、お祭りの内容も似ているといわれています。
でも、元々は毎年行われていたそうです。交互になった理由は、お祭りの費用を氏子がメインで支払わないといけないということからです。
人によっては現在では隔年となっている神田神社の氏子を兼ねている人もいるので毎年2つのお祭りの費用を払うのが大変だったと言われています。
とても毎年2か所の神社のお祭りの費用は払えないということになり2年に1回となったという説が有力です。
確かに普通の氏子だとなかなか大金を毎年出すのは難しいですよね。
日枝神社は室町時代頃から存在していたらしいですが、江戸時代に徳川家の産土神となったことによって注目を浴びるようになったそうです。
そして、江戸城の守り神となったことで幕府側から手厚く保護されていた神社です。産土神社ということもあり、江戸城の中に山車や神輿が入る事も許されたという歴史があります。
その後、江戸幕府が滅亡したと同じく祭の方も同じように衰退していってしまいました。
神田神社の神田祭
神田祭も江戸三大祭の1つのお祭りです。前述の通り、現在は山王祭と隔年開催になっています。
神田祭は東京の千代田区にある神田明神で行われるお祭りです。現在は、5月の中旬にお祭りが行われています。
でも、元々は山王祭と同じく今の5月とは違う時期に行われていました。以前は旧暦の9月15日に開催されていたそうです。
神田祭は、山王祭と違い記録がほとんど残っていません。記録が残っていないこともあり歴史や成り立ちがわかっていない部分も大きいミステリアスなお祭りです。
でも、現在と同じく東京を代表するような大きな祭になったのは江戸時代以降らしいですよ。
その江戸時代に徳川家康が桶狭間の戦いなどの多くの戦で勝利を収めるために神田大明神で祈祷をした結果、戦に勝利することができたという逸話があります。
旧暦の9月15日の祭礼の日に徳川家康が戦いに勝ち、天下統一を果たしたことから神田祭は徳川家縁起の祭となり大切に扱われるようになったそうです。
神田祭も都内の開発が進む前は山王祭と同じく山車の出る祭りでしたが明治時代頃からの都内の変化により山車が出なくなりました。
路面電車や電柱の増設により山車が道を通ることが難しくなったこともあり、徐々にその姿が見かけられなくなりました。
その上、第二次世界大戦や関東大震災で山車が焼けてしまったことで出せなくなったという悲しい理由があります。
浅草の三社祭
三社祭は、江戸三大祭と呼ばれる祭です。浅草神社にて行われているお祭りです。その祭の名前にもなっている三社は、浅草神社の一之宮、二之宮、三之宮を指しています。
昔は船渡御がメインで行われていたお祭りです。船渡御は船に神様などをのせて川や海に流す儀式です。
その船渡御は、明治時代に注視されました。その後、昭和30年代の浅草寺本堂の楽慶を祝し、船渡御が行われたそうですよ。
そして、神輿の巡行がメインのお祭りです。ストリートパフォーマンスと表現されることもあるお祭りです。
伝統的な舞が踊られたりと様々な芸術を見ることができます。なので、今では少なくなったいかにも祭りといった祭らしい雰囲気を味わうことができます。
ほかの江戸三大祭と同じく、5月に行われています。三社祭りは、5月の第3金曜から日曜までの3日間毎年行われます。
そもそも「三社」って?三社祭の起源と歴史
浅草の主祭神は観音様
三社祭りは、そもそも神社のお祭りとしてだけでなく観音様と一緒に行われていたそうです。
その観音様というのが浅草寺のことです。浅草寺と言えば、東京の人でなくても知っているくらいの有名なお寺ですよね。
実は、その観音様は漁師が隅田川で見つけたと言われています。浅草観音は627年に隅田川で漁師である檜前浜成と竹城という2人の兄弟の網に観音様が引っかかったそうです。
その観音様は何度網をかけても同じように引っかかってきたそうです。漁師の兄弟は同じ形の観音様が何度も引っかかることを奇妙に思い、持ち帰りました。
そこで持ち帰った観音様を土師真中知という今でいう有識者に見せるとありがたい聖観世音菩薩の尊像であることがわかったのです。
翌日、観音様を持ち帰った漁師の兄弟は大漁を得ました。そして、土師真中知は頭の髪を落として僧となって、その観音様を小堂に祀ったそうです。
その小堂が最終的に浅草寺になったみたいです。
浅草寺の起源
浅草寺と浅草神社は、名前が似ていますよね。場所が似ているということもあると思います。でも、読み方は「せんそうじ」と「あさくさじんじゃ」です。
実は、先ほどの話に出てきた観音さまが祀られているのが浅草寺なのです。
その観音様を見つけた漁師たちの3人が祀られている場所が今の浅草神社となっています。歴史の教科書で神仏習合という言葉を聞いたことがありませんか?
神仏習合とは、日本の神道と仏教信を融合させた新しい信仰体系として再構成されたものです。
最初は仏教が主で神道が従という考え方がありであり、神前での読経や、神に菩薩号を付けるということも多かったと言われています。
そして、明治政府の神仏分離令で明治元年に神社の名前を浅草神神社から三社明神社と改めました。
最終的には、現在の浅草神社という名前になりましたが今も氏子の方から三社様と呼ばれています。
三社祭の始まり
浅草観音は627年に隅田川で漁師である檜前浜成と竹城という2人の兄弟によって発見されたと言われています。
それを聞いた土師真中知がその観音様の久徳を広く庶民に広めるべきと説いたことから3人で小堂を結んでおまつりし、観音信仰を始めたことが始まりといわれています。
その小堂がどんどん大きくなり浅草寺へとなり地域社会の中心とさえなりました。浅草の発展においても欠かすことができない出来事だったのです。
なので、小堂を結んだこの3人が浅草の町の発展への功労者でもあるということもあり、徐々に神として信仰されるようになったそうです。
今でもこの3人は浅草神社で祀られている存在です。土師真中知を阿弥陀如来、浜成を観世音菩薩、竹成を勢至菩薩の化現としています。
そして、祭礼が行われるようになったのが三社祭と言われています。三社祭は、浅草の発展に感謝し、さらなる発展を望むための祭りであるとも言えるでしょう。
三社祭を詳しく解説!祭の内容とスケジュール
三社祭のスケジュールは?ざっと紹介
三社祭りは、明治の初めまで今と違うスケジュールで行われていたそうです。その時代は、3月17日と18日の2日間開催だったそうで、干支が丑、卯、巳、羊、酉、亥の年だけ本祭りが行われていました。
該当の干支に当てはまらない年に関しては陰祭が行われるという形がとられていたのです。
でも、年を重ねるごとに東京の町が大きく変化していきました。祭りが始まった頃と比べると驚くほどの変化ですよね。
それにより、祭りも今の東京の形に合わせないといけなくなってしまいました。
東京の交通事情などを考慮したことで昭和38年に3月17日、18日という日程よりも曜日を優先し、最も近い金土日の3間ということに決められ現在までその形が続いています。
でも、実はお祭の前日である木曜からお祭りは始まっています。なので、実質4日間ものお祭りですね。
三社祭は神輿がメインのお祭りとなっていますが、その神輿に浅草神社の魂を移すという儀式が午後8時から行われます。
この儀式があってこそ、神輿がその漢字の組み合わせの通り神様の乗り物になるのです。その儀式が夜に行われるのは神様が降りてくる時間帯が夜だと信じられてきたということが理由になっています。
現代でも照明を全て落として真っ暗な中で行う儀式となっており、荘厳さが溢れています。
三社祭りの初日
三社祭りの初日は、浅草芸者や田楽などの名物大行列が登場します。その様子は、ストリートパフォーマンスとも呼ばれています。
元々、三社のエリアに歌舞伎小屋があったそうです。中村、市村、守田座などの歌舞伎が人気を集めてにぎわっていた場所だったらしく、そういった芸術を好む人も多かったそうです。
初日の大名行列は午後1時から浅草組合前から浅草神社社殿へと出発していきます。その道中を木遣り唄を歌う鳶の頭を先頭に神社総代や各町内代表たちが練り歩きます。
神事拍板舞のメンバー、浅草芸者集の手古舞、屋台に仕立てた三社囃子の囃子方などの芸を行う人達も同じく歩いて行きます。
神社に到着してから、社殿で拍板舞が奉演されるのです。拍板舞は、室町時代の古式を伝える田楽舞で浅草に田んぼが広がっていたことを想像させるような民族芸能となっています。
そして、三社祭りを代表する踊りであるびんざら舞も初日に舞われるのです。びんざさら舞が踊られるのは浅草神社の境内の神楽殿です。
二日目
二日目は、午前十時から例大祭式典が行われます。そして、午後に待ちに待った神輿の連合渡御というスケジュールになっています。
この時の神輿の数は、大小合わせて約80基にもなります。数が多いことから南部、西部、頭部と分かれ午後1時から30分刻みで動き出します。
神輿が連なって歩くダイナミックな様子はエネルギー溢れる風景であると言われていますよ。
実際にその場に行くと祭らしい熱い熱気やパワフルな息遣いを感じることができます。
また、氏子の中でも3か所のみ飛び地になっている場所においては先に宮神輿の渡御が行われるのです。
神事びんざさら舞い
びんざら舞いというのは、そのびんざさらと呼ばれる楽器で踊りながら音を出す神事となっています。
元々、びんざさら舞は、浅草だけの舞ではなかったそうです。起源は平安時代で田植えの行事を芸術家したものらしいです。
鎌倉時代から室町時代にかけては浅草以外の地域でも行われるくらい流行したそうです。びんざら舞を舞う人は、お祭りらしく派手な衣装を着ます。
びんざさらを摺り鼓を打ちながら舞います。色々とフォーメーションを変えて、豊作や悪霊退散を願いながら舞うのです。
その時、びんざさらでさまざまな音を出します。そのびんざさら舞いのびんざさらは、108板の薄く細いヒノキの板を重ねて上を紐で止めたアコーディオン状の楽器です。
実は、昭和31年に東京都の無形文化財に指定されている神事でもあるのです。
御神輿魂振り
魂振りというものは、神輿を激しく上下左右に揺りうごかす行為を指します。神輿を揺り動かしている様子は浅草以外でも見かけることがあると思います。
単純に祭りで神輿を担う時にリズムよく運びたいからという理由ではないのです。字の通り、神輿に移された魂を揺り動かすという意味を持っています。
その魂振りをすることで、豊作や大漁のご利益を願うと言われています。さらには病気や邪気さえも払う行為とも言われています。
日本全国の神輿で魂振りは行われていますが、三社祭の魂振りは特別激しく荒々しいと言われています。
神輿を揺らすだけでなく、掛け声も気になりませんか?三社祭りだけでなく、御神輿を担ぐ時掛け声を出すことが多いですよね。
掛け声をかけながら神輿を担ぐのは周囲とバランスを取るためも理由の1つだと思います。
でも、1番の理由は疲れにくくするらしいです。
掛け声を出すことによって重たい神輿を軽く担ぐことができるようになるのです。また、言霊という言葉を聞いたことがありますよね。
神輿の掛け声にも霊力が入り、神輿の担い手の気が一体化して大きなエネルギーとなると言われています。
現在では、三社祭りにおいても「そいや」、「おりゃ」、「どっこい」など掛け声にもバリエーションがあります。
でも、江戸時代の頃は「わしょい」が主流だったと言われていますよ。神輿を担ぐリズムが早くなったことから「わっしょい」では間に合わなくなってしまったとも言われています。
また、神輿の担ぎ手が少なくなり全国から募集したことで変わっていったという説があります。
いずれにしろ、掛け声をかけることでパワーがみなぎり、激しく神輿の魂振りをすることができるのです。
三社祭ってトラブル多いの?禁止事項やタブーについて
担ぎ手のファッション
三社祭りにおける神輿の担い手は、入れ墨が多いと言われています。検索した場合も「三社祭 入れ墨」というワードが上位に出てくる状態です。
そもそも三社祭りに限らず、祭りと言えば血の気の多い男の行事というイメージが強いかもしれません。
でも、三社祭りが始まった時代から入れ墨の人が多かった訳ではないようです。実はそれは東京が都市化していったことが理由の1つとなっているそうです。
浅草に限らず、東京が都市化していくにつれてオフィスなどが増えて日中の人口は多いけど実際に住民登録されている住民が減っていくというドーナツ化現象が少し前に叫ばれていましたよね。
そのドーナツ化現象は、都心のオフィス街のみならず浅草でも同じように起きてしまい三社祭りの地域においても人口が減ってしまったそうです。
三社祭りは、現在の氏子だけでなく過去に氏子であった人が参加しても良いというお祭りではありますが神輿の担い手が極端に減ってしまったことがあり困っていました。
その祭の参加者が少なくなってしまい困った時に全国に向けて募集をかけて集まった人の中に暴力団員が多かったそうです。
なので、祭りの参加者に暴力団員が占める割合が増えていったことから入れ墨が入った人が多くなるという現象が起きてしまったそうです。
確かに神輿を担いでいる人の気性は荒いかもしれません。特に神輿を担いでいる人は普段よりもテンションが上がっていることも多いので近づくのも怖いと感じてしまうかもしれませんね。
でも、入れ墨の人を見かけても実際にぶつかったりせず見ているだけであれば問題ないそうです。
なるべく、近寄らないようにしておきましょう。
確かに入れ墨をしている人を見かけるとぎょっとしてしまうこともありますよね。なので、東京が都市化する前は平和なお祭りだったみたいですよ。
現在、入れ墨が禁止されている訳ではありませんが袢纏に関しては着こなし方のポイントがあるそうです。
祭りと言えば袢纏ですよね。最初は、庶民が着用することができなかった羽織の代わりにしていたそうです。
そして、染め抜いているや業や家紋から着ている者の身分がわかることから身分証明の役割もあったそうです。
昔は普段着でしたが今は祭りの時くらいしか着用しませんよね。そういった理由もあり少しずつ派手になってきているそうです。
袢纏を着こなすポイントとしては、ぴったりなサイズを選ぶということがあります。色は全体のバランスを見て選ぶと良いと言われ、袢纏と帯の色を真逆にすると粋でオシャレだと言われています。
慣れると5分で着ることができるようになるそうです。神輿を担いでいると袢纏が着崩れてくるので自分で直す術を持っておきたいですよね。
袢纏が気崩れているのを直さないからこそガラが悪く見えてしまうということもありそうです。確かに祭りに夢中になると着物なんて二の次になってしまいますよね。
神輿乗ると祭りが中止?
日本におけるお祭りにおいて、お祭りの神輿に人がのることもあります。小さい子供をのせる祭りもありますよね。
でも、浅草三社祭りに関しては人が神輿に乗ることを認めていません。
三社祭りの神輿には神様が乗っているとされています。神様の存在を下す神事も行われ、かなり厳粛な雰囲気があります。
万が一、神社内で神輿に乗ってしまった場合は翌年のその神輿の渡御の中止や該当人物の祭りへの参加が禁止されます。
町内での出来事であれば、その年の大祭への参加が中止などの厳格な処罰の対象になってしまいます。
神輿に乗ってしまった本人以外にも扇動した者がいれば、その人物も処罰の対象となるので他人事ではありません。
一人で勝手に神輿の上に乗っても集団で神輿を担うという性質があるからこそ、人にも迷惑をかけてしまうので注意すべきです。
俗にいう連帯責任ですよね。地域の行事だったからこその慣例になっていったのかもしれませんね。
ただし、ここ数年は新型ウィルスの影響によって神輿に乗るどころか神輿を担ぐという行為が中止されています。
何台もある内の神輿の一之宮神輿1基台のみトラックの荷台に乗せて街を運転するというスタイルが取られていました。
緊急事態宣言によって、初夏でなく秋に延期をしての措置が取られた年もあります。氏子たちの中でも賛否両論あったそうです。
多くの飲食店や百貨店が休業要請に応じる中、致し方がない決断だったのかもしれませんね。
ケンカやトラブルが多発?
神輿を担ぐ時はすさまじい雰囲気が漂っています。神輿と担い手が狭い場所に密集するのでトラブルが起きやすいとも言えます。
お祭りだと平常時よりもテンションも上がり、精神も高揚してしまいますよね。大人しい人でも血走った眼を持つこともあるでしょう。
祭りの熱気には人を変えてしまうような魔力もあると思います。車を運転するときだけ性格が変わる人に近いものがあると思います。
その中でも神輿のメインになる部分を誰が持つのか?ということで喧嘩をしている人物も少なくありません。
小さなことに思えますが、祭りや神輿に思い入れが強い人にとっては大切なことだから当たり前なのかもしれません。
それにおいては、大昔からあるトラブルの1つだと言われています。怒らなくても良い場面でもつい声を荒げてしまうのも祭の魔力かもしれません。
そのように祭りや江戸っ子共に血の気が多そうなイメージがありますよね。だからこそ、祭りはガラが悪いというイメージがついていることも多いです。
そんなこともあり、今でも神輿そっちのけで喧嘩が起きてしまうことも多いみたいです。
ただし、現代は昔と違い誰が神輿の1番目立つ部分を持つか?なんて可愛い争いごとではありません。
浅草地区周辺以外の神輿の担い手が増えたことから意図的に妨害をするために参加している人も増えてきているみたいです。
祭りと言えば、無礼講で楽しむという一面があったりもしますが最低限のルールがあるからこそ上手く進んでいくのです。
本当にルールがないとお祭りなんて乱闘騒ぎを起こしている人たちと変わらないようになってしましますよね。
また、最近はお祭りそのものと関係なくヤクザの喧嘩の舞台になってしまうことも増えてきているようです。
属している派閥の違うヤクザの人たちがかち合ってしまい、そこで喧嘩が始まるということも増えてきているようです。
最近では逮捕者などが出てしまうこともあるみたいですが、元々お祭りを愛している氏子の場合はそんなことなさそうです。
ヤクザと祭りは切っても切れないご縁があるのかもしれませんが、昔のように平和なお祭りが戻ってきてほしいですよね。
浅草神社を訪れたら見ておきたいおすすめポイント
重要文化財の鳥居と本殿
浅草神社を訪れたらまず見ておきたいのが鳥居です。浅草神社に限らず、神社へ参拝するとまず鳥居が目に入りますよね。
鳥居は神社の玄関です。普通、人の家に入るときは玄関から入ると思います。なので、神社は喪中などの特別な理由がない限りは鳥居から入りましょう。
浅草神社の鳥居は神明鳥居と呼ばれる形をしています。その鳥居は、明治18年と割と最近に建立されました。
そして、神社の社殿も見ておきたいものです。神社の社殿と言えば、家でいうメインです。普通の自宅で言えば、メインの建物ですね。
この社殿という言葉は神社の建物をまとめた言葉となっています。その中でも御祭神やご神体が祀られている建物を本殿と言います。
浅草神社の社殿は、本殿、幣殿、拝殿の3つで構成されています。日光の東照宮と同じく、権現造りと呼ばれる建築様式となっています。
徳川家に保護されてきた神社ということもあり、社殿は徳川家光から寄進されていました。それから現代まで関東大震災や戦争など様々な災害に遭ってしまっていますがどれも大きな被害を受けず当時のままの姿を眺めることができています。
そして、本殿は1951年に国の重要文化財にも指定されています。それによって、現代でも国家の細を受けています。
1996年に建物全体に工事費総額3億5千万円をかけてうるしや色彩を塗り直しました。今は、すごく美しい姿を見ることができます。
歴史を感じる石碑や現代のあの人も石碑に?
浅草神社の境内には石碑もたくさん点在しています。その中でも最も重要な石碑が3つあります。
それは、この神社の建立に関わったとされる土師真、竹成の3人の石碑です。宮司が、ご祭神の御名の「土師」姓を継ぐことを祈念して建立された碑です。
神社の社紋と海を表すデザインの三柱にご祭神の御名が刻まれている石碑です。
神社建立の理由ともなった観音様との御縁などの経緯と信仰を記録するだけでなく、浅草という土地の更なる繁栄への望みが込められています。
ほかには、有名な歌人の石碑など13基もの石碑が建てられています。その中でも最も面白いのがこち亀の碑です。
歌人の名前や歌を知らずともこち亀を知っている人は多いのではないでしょうか?皆様の想像する通り週刊ジャンプで連載されていた漫画のことです。
主人公である両津勘吉が描かれている碑なので歴史や神社に興味がない方でも見て見ようと思う人も多いかもしれませんね。
ほかには、お百度参りの石があります。神社と言えば、現代のように軽くお願いすることもあれば毎日お百度参りをして願いを込める人もいたはずです。
現代もひっそり願いを込めてお百度参りをする人もいるかもしれませんね。何か願いがあるときに覚えておくと役に立つでしょう。
歴史を感じる石碑と現代の漫画の石碑が点在するとは不思議な空間ですよね。
浅草神社の御朱印は女子にも人気
神社巡りと言えば御朱印ですよね。御朱印を集めることには賛否両論あるかもしれませんが、ただのスタンプラリーではありません。
御朱印は、自分が亡くなった時や親しい人が亡くなった時に棺に入れて共に燃やすと良いとされています。
御朱印は徳なのです。だから、御朱印を集めるということは徳を集めているということでもあるのです。
棺に御朱印を入れるということは、その徳を持ってあの世へと旅立つことができると言われています。
その通りに、いざ棺に御朱印を収める時は故人の周囲を開いた御朱印帳で囲みます。単なるスタンプラリーでなく、あの世へと持ち込める徳だと思えば集めたくなりますよね。
そんな御朱印なのですが、浅草神社の御朱印は1種類ではありません。なんと、複数の御朱印が用意されています。
通常の御朱印や末社の御朱印だけでなく、季節限定の御朱印まであるのです。もはや、極楽浄土へと連れて行ってくれるアイテムというよりはコレクター欲も刺激されますよね。
浅草神社で通常時に授与される御朱印は4種類になっています。浅草神社の御朱印、末社の被官稲荷神社の御朱印、浅草名所七福神の恵比寿、東京福巡りというラインナップです。
初穂料は、相場より少し高めの500円となっています。そして、季節限定の御朱印は毎月のように違う御朱印が授与されています。
季節の行事だけでなく、三社祭りのように浅草神社独自の行事にも沿っています。いつ行っても違う御朱印って素敵ですよね。
限定の御朱印はカラフルな様子なので目で見て楽しいものも多いです。御朱印目当てであっても季節毎に神社に参るのは良いことだと思います。
被官稲荷神社は出世にご利益アリ
被官稲荷神社は、浅草神社内に建立されている末社です。元々は、京都の伏見稲荷大社において新門辰五郎が自分の妻のことを祈願したことが始まりとなっています。
その妻が重い病にかかってしまった時に伏見稲荷に祈願したところ病気が快方へと向かっていったという逸話があります。
このご利益を得たことに対してのお礼の意味もこめて浅草に伏見稲荷神社から神様の祭神御分身を勧請した神社なのです。
その後、名前を被官稲荷神社と名付けられ、浅草神社の末社になっています。名前の由来は稲荷部分が伏見稲荷からきていること以外は不明ですが、就職・出世の官から付けられていると言われています。
ちなみに、被官稲荷神社正面の鳥居は最初に妻の病気を伏見稲荷で祈願した新門辰五郎が奉納したものです。
社殿は関東大震災や第二次世界大戦においても焼けることがなく、古いまま維持されている価値ある建築物です。
気になる後利益ですが恋愛というよりは出世に強いと思います。恋愛よりも仕事においての出世などを願う方が良いでしょう。
ただ、この場に伏見稲荷の神様を勧請してきた理由が夫婦愛だからこそ恋愛にご利益があるという話が出てきたのかもしれません。
まずは、仕事などの出世にまつわるお願いごとをメインに行ってみましょう。
でも、恋人から配偶者に昇格するのも出世の一つですよね。
寄り添う狛犬が特徴的
浅草神社には狛犬が3か所鎮座しています。1つ目は、参道にいる狛犬なので神社に入るとすぐ出迎えてくれます。
次に現れる狛犬は社殿の前に鎮座する狛犬です。神社をしっかり守ってくれているのかもしれませんね。
最後の狛犬が最も特徴的な姿をしています。狛犬というと、最初の2か所に鎮座する狛犬のように左右に分かれて神社を守っているイメージが強いかもしれません。
確かに狛犬は、災いを避けるという意味あいを持っています。でも、浅草神社の狛犬に関しては、横にぴったりとくっついています。
その姿が珍しいと評判になっています。この狛犬は江戸時代につくられたそうです。でも、狛犬がぴったりと寄り添っている理由はわかっていないそうです。
その様子が仲睦まじい夫婦に見えるとも言われています。なので、今では相合傘をさしています。
その様子から恋愛成就や夫婦和合などにご利益があると言われているので恋愛運上昇を意識している人は参拝しておきましょう。
びんざさら舞もここで!神楽殿
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神楽殿はそこの神社でも神様へ奉納するための神楽や舞踊が舞われる場所となっています。浅草神社では、三社祭りの時に巫女舞や神事びんざさら舞の奉演などが行われる場所です。
占い師 秋桜のワンポイントアドバイス「江戸文化を継承する三社祭|地元のつながりを感じて」
歴史をしっかり感じることもできる、祭りを通して氏子のつながりも感じることができるわ。
現代では神輿を担ぐことを面倒だと思う人の方が多いかもしれないわね。けど、年1回の行事よ。
ただ、神輿を担いで騒いでいるだけでなく神事としても意味があるからそこをしっかり覚えておくと良いわ。
今は、あまり見かけることが少なくなった江戸の文化をのぞき見することもできると思うのよね。
だからこそ、東京にご縁がない人も旅行で訪れる機会があったら三社祭りを見学してみても良いと思うわ。