新嘗祭(にいなめさい)は、勤労感謝の日に行われる日本古来の行事です。
しかし、現代日本では一般的に広く知られている身近なものだとは言い難いでしょう。
思い返してみると、勤労感謝の日には神社でのぼりが建ったり神事が行われていたはずです。
「日本の歴史を感じたい」と思うのなら、新嘗祭について知っていきましょう。
この記事では、勤労感謝の日に行われる新嘗祭について由来や歴史、大嘗祭や神饌、神饌の原産地まで詳しく解説していきます。
一般の人がどう過ごせばいいのかについてもご紹介していきますので、参考にしてみてください。
新嘗祭についての知識を深め、今年の勤労感謝の日を迎えてみましょう。
いつもとは少し違った過ごし方ができるはずです。
目次
新嘗祭(にいなめさい)っていつ?由来や歴史についてもわかりやすく解説
新嘗祭とは|収穫祭
新嘗祭とは宮中祭祀の1つで、簡単に説明すると収穫に感謝し来年の収穫を祈る収穫祭です。
宮中祭祀というのは天皇陛下が国家と国民の安寧と繁栄を祈るために行われる祭祀のことで、新嘗祭も天皇陛下が行うものです。
天皇陛下は11月23日に、その年に採れた五穀の新穀を神にまつり、自らも食します。
神にお供えするだけでなく、天皇自らも食すのには理由があります。
天皇は天照大神(アマテラスオオミカミ)の子孫で、受け継いだのが国に恵みをもたらす豊穣の力です。
その力をまた新たなものにするためにも、新穀を自らも食べる必要があるのです。
そして、この祭祀を通じて天皇が力を蓄えることで、来年もまた豊作になると信じられてきました。
穀物がよく採れるかどうかというのは、私たちの生死を分ける重要なことです。
だから、私たち日本人は古くから新嘗祭という行事を通じて、収穫に感謝するとともに来年の豊作を祈っていたのでしょう。
今では食事が食べられることは当たり前のことになり、収穫は当たり前との意識になり感謝の気持ちが薄れてきています。
ですが、食事があるのは当たり前のことではありません。
古くから行われている新嘗祭について考えるとともに、日々の食事への感謝の気持ちを抱くようにしていきましょう。
新嘗祭は11月23日|日本でもっとも古い祭日で現代では勤労感謝の日
新嘗祭が行われるのは11月23日です。
ですが、昔からずっと11月23日に行われてきたわけではありません。
新嘗祭が11月23日になったのは1873年のことです。
1873年に新暦が導入される以前の旧暦では、新嘗祭は11月の二回目の卯の日に行われていました。
この旧暦の新嘗祭の日を新暦に当てはめると1月となってしまいます。
収穫への感謝の行事が翌年の1月にまでずれ込んでしまうのは適切ではありません。
そのため新暦の11月の二回目の卯の日に行うこととし、それが11月23日だったため新嘗祭はその後も11月23日に行われることになったのです。
新嘗祭は日本で最も古い祭日ですが、それが定められたのは明治6年(1873年)のこと。
「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」という祝祭日を定めた法律で、新嘗祭は祭日となりました。
祭日とは皇室の大事な行事を執り行う日のことで、国家神道推進のため休みの日に制定されました。
この祭日が祝日となり、新嘗祭から勤労感謝の日へとなったのは、第二次世界大戦での敗戦がきっかけです。
祝祭日から国家神道の色をなくすことを目的に、新たに勤労感謝の日という名称に変更されました。
新嘗祭という行事は残りましたが祝日の名称ではなくなり、私たちの日常からもすっかり新嘗祭は遠いものとなりました。
ですが、古くから行われてきた伝統行事であることを忘れず、現代でも新嘗祭の日には作物への感謝の気持ちを持てるといいでしょう。
新嘗祭の歴史|日本書紀にも記載あり
新嘗祭はいったいいつから行われていたのでしょうか。
正確なことはわかっていませんが、稲作が始まった弥生時代にはもう行われていたのではないかと考えられています。
農耕民族である日本人は、穀物への収穫の感謝の気持ちを古くから抱いていたことがわかりますね。
新嘗祭は奈良時代に編纂された日本書紀にも記されており、飛鳥時代の皇極天皇の頃に始まったというのが一般的です。
ただし、政局が不安定だったりして、毎年行われるものではありませんでした。
新嘗祭が毎年行われるようになったのは、江戸時代の元禄の頃だそうです。
それ以降は毎年行われ、現在まで続いています。
新嘗祭が始まったのに、大きく関係しているのが日本神話です。
天皇の祖先とされている天照大神は、日本神話の中で地上に降り初穂を食べます。
そのことが由来となって、初穂を神と天皇が食す行事となったと言われています。
このことからわかるのは、古くから我々日本人が米を愛していたということでしょう。
現代のように食べ物があふれている世の中ではなかった昔の人たちにとって、穀物が収穫できるか否かは生死を分ける大切な出来事でした。
だから、神に祈り、来年もまた実り豊かな年になるようにと願っていたのです。
こうした祈りが長年続けられてきたからこそ、現代の私たちの暮らしは発展を遂げてきたともいえるでしょう。
古くからの伝統行事である新嘗祭についての知識を深め、これまで続けられてきた人々の祈りへの思いを深めていきましょう。
新嘗祭の語源は新しいご馳走
新嘗祭という言葉は聞きなれないものですが、その語源とはいったい何なのでしょうか。
新と嘗とに分けて考えてみましょう。
まず新は新穀を指しており、その年に初めて実った穀物のことです。
嘗にはご馳走の意味があり、神様に供えることを意味しているとされています。
つまり、新嘗祭は新穀をご馳走にして、神々に捧げる儀式というわけなのです。
他にも新嘗祭の語源についてはさまざまな説があります。
古代中国では稲の祭りのことを嘗祭と呼んでいたから、そこに新の字が当てられ新嘗祭となった。
神や天皇に供薦するという意味の、四段活用動詞「ニハナフ」から来ている。
といったような考えがあります。
新嘗祭が行われるのは神嘉殿|全国の神社でも行われる
新嘗祭は古くからある重要な祭りで、11月23日には全国の神社で行われます。
天皇が新穀を神に供え、自らも食するのは、皇居吹上御苑内の宮中三殿近くの神嘉殿です。
宮中三殿は二重橋の後ろ側に位置しており、賢所・皇霊殿・神殿をまとめた呼び方です。
中央にあるのが皇祖神である天照大神を祀る賢所で、西に位置しているのが皇霊殿という歴代の皇族の霊を祀るところ、東側にあるのが天神地祇を祀る神殿になっています。
新嘗祭は天照大神・天神地祇に感謝をし皇族としての力を増す行事なので、それらが祀られている近くの神嘉殿で行うのでしょう。
神嘉殿はこの宮中三殿の西にあり、新嘗祭が行われるための建物で普段は空となっています。
新嘗祭の日の午後には神嘉殿内に、神座、寝座、御座が設けられます。
天皇が新嘗祭の日に着るのは、神事の服の中でも最も清浄で神聖な純白な絹地の御祭服
です。
新嘗祭の前日には鎮魂祭が行われ、当日は14時から宮中三殿で「新嘗祭賢所・皇霊殿・神殿の儀」が行われます。
そして夜になるといよいよ神嘉殿で神嘉殿の儀が行われます。
天皇は神嘉殿内の母屋で神座の前の御座に正座し、神饌を神前に供え天照大神と天神地祇に御告文を奏上します。
そして天皇は、神前に供えたのと同じものを自らも食すのです。
これは18時~20時と23時~1時の二回行われます。
全国の神社で行われる新嘗祭はどんなものか見ていきましょう。
例えば浅草神社では神社で育てた稲穂を神にお供えし、巫女が舞を奉納します。
そして、新嘗祭に参列した人には新嘗祭参列特別御朱印が、社頭では新嘗祭特別御朱印が頒布されます。
この日にしか得られない御朱印が頒布されるので、神社ファンは要チェックです。
神社にとって新嘗祭は、五穀の豊穣を願う祈年祭と対になる大切な行事です。
近くの神社ではどのような新嘗祭が行われているのか確かめてみるといいでしょう。
新嘗祭と五穀豊穣を祝う祭り祈念祭・大嘗祭などの違いについて
祈念祭は新嘗祭と対になる行事
祈年祭(きねんさい)とは春に行われる五穀の豊穣を願う行事です。
春に祈年祭で豊作を願い、秋に新嘗祭で収穫に感謝する。
この二つの祭事は対になっています。
日本書紀を見ると、日本の始まりには稲が大きく関係しています。
だから、日本人は稲に関する祈年祭と新嘗祭を2000年もの長きに渡って繰り返してきたのです。
祈年祭はとしごいのまつりとも呼ばれ、としは稲の美称、こいは祈りや願を意味しています。
としという言葉が稲を意味することは、日本人にとって稲の育成周期が1年を表していたと考えることができるでしょう。
農耕民族である私たち日本人にとって、豊作を願い実りに感謝することは大切だったのです。
そして稲作の成功は国家の繁栄にも直結しています。
だから、祈年祭と新嘗祭の2つは国を挙げて行われる行事でした。
今でも宮中祭祀の1つになっていますし、全国の神社で行われています。
祈年祭の始まりは田の神のお祭りだとされています。
農民たちの間で行われていたものが、天武天皇の時代に国の行う祭祀となり全国の神社で行われるようになっていったそうです。
第二次世界大戦での敗戦後、GHQは国家神道を廃止しました。
そのため、祈年祭も国を挙げて行う国家祭祀ではなく、皇室が行う宮中祭祀となったのです。
しかし、祈年祭が大事な行事であることは変わりないので、全国の神社では今日に至るまで続けられてきました。
新嘗祭を知るためには祈年祭も重要です。
豊作を願い、豊作に感謝する。
日本人が古から抱いてきてこの気持ちを、現代に生きる私たちも忘れないように意識してみましょう。
祈念祭の由来は宮廷の春の予祝儀礼|天武天皇の時代に始まる
祈年祭は神道の中でも最も重要な祭りの一つとして、全国の神社で丁重に行われる祭事です。
古くは旧暦の2月4日に行われており、新暦では2月17日に行われることが多くなっています。
地域によっては3月や4月に春祭りと一緒に行うこともあるようです。
祈年祭がどう始まったかについては諸説ありますが、有力な説を二つご紹介していきます。
まずは、天武天皇の時代である7世紀の後半ごろに始められた宮廷の春の予祝儀礼に由来するという説があります。
その予祝儀礼に、中国の大祀祈殻の要素を加えたものが祈年祭へと発展していったと考えられているのです。
もう一つの考えは平安時代の神道資料である「古語拾遣」によるものです。
古語拾遣の中では大地主神が御歳神の祟りを恐れて、穀物の豊作を祈願したとされています。
これが祈年祭の起源とも考えられているのです。
どちらの説にせよ、祈年祭は古くから行われているものであることがわかります。
米が収穫できなければ生きていけなかった時代、豊作を願うことは当たり前のことであり重要なことであったことが伺えるでしょう。
現代では米以外にも主食の選択肢は増えましたが、何を食べるにしろ収穫は欠かせないものです。
例えばパンを食べるにしたって、小麦がなければパンを作ることはできません。
穀物の実りに感謝する気持ちは、現代に生きる私たちも持っていなければならないものです。
大嘗祭は天皇即位後初めて行う新嘗祭のこと
大嘗祭はだいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつりと呼ばれることがあります。
一般的な呼び方としてはだいじょうさいです。
大嘗祭は天皇が即位後、初めて行う新嘗祭のことを指しています。
大嘗祭が行われる年には新嘗祭は行われず、収穫の感謝の祭りだとされています。
大嘗祭は天武天皇の時代から行われている伝統的なものです。
記憶に新しい令和への改元ですが、令和元年にも大嘗祭は行われています。
令和の大嘗祭の進められ方を確認していきましょう。
大嘗祭は11月23日だけのものではありません。
関連する行事として令和元年5月8日に宮中三殿で、天皇が即位の礼と大嘗祭の中心的な儀式の期日を皇室の祖先や神々に伝えられる儀式から始まります。
そして5月13日には大嘗祭で使う米を収穫する2つの地方を決める「斎田点定(さいでんてんてい)の儀」が行われました。
古くから伝わる占いである亀卜(きぼく)を使って、地方が決定されます。
亀の甲羅をあぶってひびの入り方で物事を定めるという方法が、現代でも用いられているのです。
9月27日には亀卜で決まった地方で米を収穫する斎田抜穂(さいでんぬきほのぎ)の儀が行われました。
収穫された米は宮内庁が買い取り皇居へと運ばれます。
11月14日~15日には大嘗宮の儀が行われますが、大嘗祭のために特別に設営される大嘗宮という建物で行われます。
大嘗宮は大嘗祭のためだけに作られる建物で、7月から建設が始まり3ヶ月かけて建てられました。
大嘗宮の儀では天皇が斎田で収穫された米を天照大神とすべての神々に供え、自らも食し国家と国民の安寧や五穀豊穣などを祈ります。
その後11月16日と18日に大饗の儀が行われ、これは大嘗宮の儀に参列した人を天皇陛下が招き開催される饗宴のことでで、皇居・宮殿で2回行われます。
これで大嘗祭が終わりではなく、この後も伊勢神宮に参拝し天照大神を参拝し、12月4日に宮中三殿を参拝し即位に伴う一連の行事は終了です。
大嘗祭は皇位継承の一度しか行われない大切な行事です。
大嘗祭で用いられる祭服は最も神聖なもの
令和に行われた大嘗祭では天皇陛下だけでなく皇族や祭儀に奉仕した人まで、平安時代の装束に身を包みました。
天皇陛下が祭儀を行う際に着用するのは束帯です。
束帯は複数の衣類を重ね、最後に石帯と呼ばれる玉石で彩られた帯で束ねる装束のことを指します。
束帯は日本の最高位の装束で、即位の礼で着用されたのが黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)と呼ばれるものです。
この儀式はニュースで多くの人が目にしたことと思います。
黄櫨染御袍とは天皇だけが身につけられる衣装で、黄櫨染色(赤茶色)をしており桐や竹、鳳凰や麒麟の文様が織り込まれています。
即位式をはじめとする祭典で用いられる黄櫨染御袍ですが、大嘗祭では祭服が用いられるのが通例です。
祭服とは天皇が着る神事用の衣服の中で、最も清浄で神聖なものです。
祭服は純白生織りのままの絹で作られたており、真っ白の見た目からもその神聖さが伝わってきます。
この衣装は新嘗祭でも用いられ、新嘗祭と大嘗祭の2つの行事以外で使われることはありません。
大嘗祭、新嘗祭、どちらも神様とともに食事をするという神聖な儀式です。
だから、そこで着用する衣装も神聖なものでなくてはならないというわけなのです。
大嘗祭も新嘗祭も皇祖・天照大神とともに食事をし、天皇は自らの力を高めていきます。
白い装束は力を刷新するのにうってつけだと言えるでしょう。
特殊な行事|出雲大社では古伝新嘗祭が行われる
新嘗祭は全国の神社で行われることはすでに述べた通りですが、全国で唯一出雲大社では11月23日に古伝新嘗祭(こでんしんじょうさい)が行われます。
収穫への感謝を伝える行事であることは変わりありませんが、古伝新嘗祭で用いられる食事はすべて熊野神社の神聖な火で調理されています。
神職は「おじゃれまう」(おいでませの意)と唱え、そうすると出雲国造が参進するのです。
神職は海獣の皮の上に神火で調理された新穀玄米の強飯とひとよ酒を置きます。
出雲国造はこの供物を四方に献じ、一緒に味わう。
これが古伝新嘗祭です。
その後、「歯固め神事」「百番の舞」「釜の神事」「神おろし」「御饌井祭」などが行われます。
古伝新嘗祭がこのような形で行われるのは、出雲大社の宮司である出雲国造の霊力を復活させるためです。
明治5年より出雲大社で行われており、古い祭事を現代に伝えてくれています。
新嘗祭と比べてみると、行うのが天皇か出雲国造かの違いがあるのがわかるでしょう。
これには出雲国造の出自が関係しています。
出雲国造とは出雲を統治してきた家系で、代々出雲大社の宮司を務めています。
出雲国造の祖先は天穂日命(あめのほひのみこと)で、天穂日命は天照大神の子とされて、出雲大社を作ったとされているのです。
天皇も天照大神から生まれた天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子なので、天皇と出雲国造は神代より続く家系として並んで語られることが多いのです。
こうした出自を持っているので、出雲大社では独自の行事として古伝新嘗祭が行われています。
神を祖先に持つ天皇と出雲国造は、11月23日に新穀を神々と一緒に食し、自身の持つ力をまた新しくしているのです。
出雲大社独自の行事なので、機会があれば古伝新嘗祭も参拝してみましょう。
神嘗祭は新嘗祭の前に行われる感謝祭
新嘗祭と似た響きを持つ祭事に神嘗祭(かんなめさい)があります。
同じ嘗の字が使われていることからもわかる通り、神嘗祭も収穫に感謝する行事です。
神嘗祭はその年初めて収穫された新穂を天照大神に捧げる神事です。
その昔は新嘗祭の二ヶ月ほど前に行われていましたが、新暦の採用によって現在では一ヶ月ほどに感覚が縮まっています。
稲作は神々から命を受けて始まったものだとされており、ゆえに収穫物は自分たち人間のものではなく神のものだと考えられています。
だから、その年の一番目の収穫も神に捧げ、無事に収穫ができることを願うのです。
神嘗祭は伊勢神宮では最も重要な祭祀だとされ、神嘗祭のときに装束や祭器具を一新します。
このことから神嘗祭は神宮の正月とも呼ばれています。
神嘗祭のときには天皇は神嘉殿から神宮を遥拝し、皇室にとっても大切な行事の一つです。
新嘗祭がかつて祭日であったように、神嘗祭もかつては祭日でした。
しかし、第二次大戦後GHQによって祝祭日が見直された際、休日ではなくなり平日となってしまいました。
こうしたことから神嘗祭は私たちの身近な行事ではなくなりましたが、昔から行われている大事な祭祀です。
神嘗祭と新嘗祭、似ている2つの行事ですが混同しないようにしっかりと覚えておきましょう。
米の収穫に関する行事がこれだけあるということ、そしてそれらがどれも古くから現代に伝えられていること。
この事実は、私たちに大事なことを教えてくれています。
それは稲が実らなければ私たちは生きてはいけないということです。
今では毎日ご飯が食べられることが当たり前になりすぎていて、作物が実ることへの感謝やそもそも食べものへの感謝の気持ちが薄れてきています。
「いただきます」という言葉は、実った命や動物の命をいただいているということ。
今一度、食事への感謝の気持ちを持ち、日々を過ごしていきたいものです。
古くから受け継がれてきた行事には、忘れてはいけない昔からの教えが込められています。
新嘗祭や神嘗祭について考えるとき、どういった行事かを知ることも大切ですが、どうしてそれが行われてきたのかという背景も大切です。
新嘗祭や神嘗祭について深く知り、私たちの生活にもつなげていきましょう。
感謝の気持ちが持てれば、食卓はもっと豊かなものになっていくでしょう。
新嘗祭のお供え「神饌(しんせん)」って?
神饌(しんせん) の意味はお供え物|新嘗祭の神饌
新嘗祭では天皇は神に神饌(しんせん)を供え、自らも食事をします。
新嘗祭では神饌は欠かすことのできないもので、神饌自体が神として扱われます。
これは神饌として用意したものが神の体内に入り、神を作るものとなるからでしょう。
神饌として用意するものは、稲作物、鮮魚、干物、果物、海産物と決まっています。
それぞれについては、この後の章で解説していきます。
どの食材も調理する際は、鑽火(きりび)の忌火を使うのが慣例です。
鑽火とは古代から行われている発火法で 火鑽杵(ひきりぎね)と呼ばれる棒状の木材を、火鑽臼(うす)というくぼみのつけられた木材に押し付けて回転させるものです。
摩擦によって発火し、神聖な火が得られると考えられています。
忌火というのもこの上なく清浄である火を意味しており、神様に備える神饌は手間暇をかけて作られることがわかるでしょう。
清浄であることに気をつけて作られた神饌は、どのような器に盛るかにも決まりがあります。
お酒や汁物には土器が使われますが、他のものを盛るのは柏の葉に竹ひごをさして作られるものです。
形状によって呼び方に違いがあり、窪手は筥型で盛り付け用、枚手は丸い皿型で取り分け用となっています。
窪手の中の神饌を枚手に取り分けて神前に供えるのが正式なやり方です。
新嘗祭の神饌は神様とその子孫である天皇が食べるとても神聖なものです。
だから、その準備も丁寧に行われます。
稲への感謝の行事ですが、神饌は稲作物だけではありません。
神をもてなすための神饌は、豪華なものでなくてはならず海の幸も山の幸も用意されます。
では続いては神饌に用いられる食材がどうやって選ばれているのか、それぞれについて見ていきましょう。
新嘗祭で供えられる稲作物は米と栗|全国から集められる
新嘗祭で供えられる稲作物は、米の蒸し御飯、米の御粥、粟の御飯、粟の御粥、新米から醸した白酒(しろき)、黒酒(くろき)です。
明治25年からは、各都道府県が厳選した農家が育てたものが献上されています。
新嘗祭に米を献上することが決まると、農家は神主とともに米を大事に育てます。
種まき祭、御田植祭、抜穂祭などの行事を経て、神様と天皇のために育てられる米は非常に貴重です。
皇室に献上されるのは一升の米で精米され桐の箱に入れられ、絹製の紫のちりめんの風呂敷に包まれます。
紫は日本古来から最高級の色であり、献上米がいかに大切に扱われているかがわかるでしょう。
献上米は新嘗祭献穀献納式で納められ、宮内庁から生産者には賞状が授与されます。
献上米を育てるのは神経を使う大変なことでもありますが、農家にとって大変名誉なことです。
また、一般の人たちも新嘗祭皇室献上米を購入し、味わうことができます。
収穫量は少ないため販売数も少ないですが、購入できれば新嘗祭で使うのと同じ田で育てられた米を食べることができます。
神様と天皇が召し上がる米と同じものが食べられるチャンスがあることを知っておきましょう。
かつて日本では新嘗祭が終わるまで、新米を食べることはありませんでした。
稲は神からいただいたもの。
その考えがあるから、その年に取れた新米を神に供えてからでなくては食べられないと考えていたのでしょう。
ですが、現代で11月23日まで待っていると新米の時期は過ぎてしまいます。
稲作がすべて人力で行われていた昔は、人々のところに新米が行き渡るのは11月頃であったようです。
こういった事情もあるので、現代では新嘗祭を待たずに新米を口にしても問題はないでしょう。
新嘗祭では魚(鮮魚)も神饌として供える
新嘗祭で供えられる魚は、鯛、烏賊、鮑、鮭です。
これらは甘塩にして三枚に卸し、小さい短冊形に切り、一品ずつ四筥に納めて神饌とされます。
新嘗祭はお米に関する行事ですが、海の幸も用意し神様をもてなします。
鮮魚とともに干物も供える
新嘗祭ではすべての恵みに感謝するとともに、さまざまな食材で神様をもてなします。
十種以上と決められている神饌では、干物も選ばれます。
神饌として供えられるのは干鯛、鰹、蒸鮑、干鱈です。
これらの干物は筥に納められ、新鮮として供えられます。
山の幸である果物も神饌とする
新嘗祭にお供えされるものとして、海の幸をご紹介しましたが、もちろん山の幸も一緒に供えられます。
天皇は皇祖である天照大神のために、たくさんの食材を用意するのです。
神饌の中で果物は、干柿、かち栗、生栗干、棗です。
こららは、そ筥に納められ神饌としてお供えされます。
鮮魚と干物以外の海産物
これまで神饌として鮮魚と干物をご紹介してきましたが、まだ他の海産物も神饌として用意されます。
それは、蛤の煮付け、海藻の煮付け、鮑の羹、海松(みる)の羹です。
少し調理をしたものも神饌としてお供えをし、神様に味わっていただきます。
新嘗祭の神饌の調理は忌火で行われる
神饌のメニューについてご紹介してきましたが、食材そのままを供えるものもあれば調理が必要なものもあったことと思います。
調理が必要なものについては、特別な火を用いて調理します。
大事な儀式に使われるものなので、特別な食材を用意するだけでなく、調理も清浄であることを大切に行われるのです。
新嘗祭の神饌を調理する際に使う火は、手で起こします。
原始的な発火方法である鑚火(きりび)は神道では鑚火神事として、神饌の調理などに用いられます。
鑚火によって灯した火は忌火と呼ばれ、この火は神道において最も清浄なものです。
これを調理に使い、神饌は用意されます。
天皇陛下が神饌と同じものを食べることを直会(なおらい)という
神饌は神にも捧げますが、天皇も神饌と同じものを食します。
そのことを直会(なおらい)と言います。
直会までの流れは次の通りです。
まず神様に神饌を召し上がっていただくために、天皇は神嘉殿で神座の前の御座に正座し手を清めた後、神饌を竹箸で柏の葉の皿に移して神前に供えます。
それが終わると天皇は天照大神および天神地祇の諸神に御告文を奏上します。
この後で天皇は神饌と同じものを食すのです。
これが直会で、神々と同じものを食すことで天皇は自らの持つ力を新たなものとします。
新嘗祭の神饌はどこで取れるの?献上米って?
献上米は47都道府県から納められる
新嘗祭に使われる米は47都道府県から選ばれた特別なものです。
各都道府県は献上米を作る農家を決め、一年大切に育てた米を皇室へ献上します。
新嘗祭では各都道府県が献上米を作る農家を決めますが、大嘗祭のときは違います。
皇位継承後初めての新嘗祭である大嘗祭の時には、斎田点定の儀によって大嘗祭で使う米を育てる地を決定するのです。
亀卜という亀の甲羅を使った古い占いを行うため、適した甲羅を探すのに1年以上の時間をかけるようです。
亀の甲羅を火であぶり、ひびの入り方で、特別な米を作る特別な田んぼは決められます。
御料地でもお米を育てる|神宮神田
神饌などの神々へのお供え物を御料と呼び、その御料を育てる土地のことを御料地と呼びます。
伊勢神宮にある神宮新田(じんぐうしんでん)では、祭祀のためのお米を育てています。
神宮新田に一般の人は立ち入ることができません。
神宮新田の歴史は古く、2000年前にはあったと伝えられています。
五十鈴川のきれいな水を使い、清らかな水で育てられた米は祭祀で使われます。
令和の大嘗祭、選ばれた新米は栃木産と京都産
改元して始めての新嘗祭である大嘗祭。
もちろん、令和になったタイミングでも行われています。
大嘗祭で使われたお米は亀卜という占いで選ばれ、西日本からは京都、東日本からは栃木が選ばれました。
お米は日本人にとって大事なもの。
皇位継承というタイミングでしか行われない大嘗祭のときには、丁寧に選ばれ丁寧に育てられたものが用意されます。
新穀感謝祭の新嘗祭を身近に感じたい!何をする?どう過ごす?
床の間を新嘗祭風に飾ろう
新嘗祭を自宅で楽しむためには、自宅の飾りつけも重要です。
床の間がある場合には、床の間を新嘗祭風にして気分を高めましょう。
床の間とは掛け軸などを飾る場所であり、客間に設けられた空間です。
秋らしい掛け軸を飾り、新嘗祭を迎えれば準備は完璧でしょう。
和の行事である新嘗祭は、床の間など和の空間を大切に考えるとうまくいきます。
神社に出かけるだけでなく、自宅でも新嘗祭を楽しんでくださいね。
新嘗祭のしつらえは粟・栗・干し柿・お酒
しつらえとは準備をすることを意味していますが、新嘗祭のしつらえは家でも用意できる秋の恵みを揃えておきましょう。
新嘗祭で神饌として用意されるもののうち、揃えられそうなものを探すといいでしょう。
新嘗祭で欠かせないのは新米ですが、それ以外にも五穀、栗、干し柿やお酒が用意しやすいです。
神様や天皇が食べるのと同じものが用意できると、新嘗祭の気分は高まっていきます。
新嘗祭の行事食は新米が主役
新嘗祭の日、一般家庭では何を食べたらいいのでしょうか。
この日はやはり新米を主役に献立を考えてみましょう。
決まった行事食はありませんので、旬のものを利用し、美味しくお米が食べられそうなメニューなら何でも構いません。
お米を炊いて塩を振るだけでも、ぜいたくな秋のごちそうとなります。
読書の秋!日本書紀を読もう
新嘗祭は古くから続く行事で、日本の歴史に思いを馳せるいい機会です。
ぜひ、新嘗祭の日には日本書紀を読んでみましょう。
日本書紀には新嘗祭が行われていたことが記されています。
新嘗祭の始まりを知ることができて、日本という国に思いを馳せられる。
これほど新嘗祭の日にふさわしいことはありません。
占い師 小鳥のワンポイントアドバイス「新嘗祭は日本の歴史を物語る五穀豊穣を祈る大切なお祭り」
私たちにとってお米は神様からいただいた大切なもの。
その大切なお米を神様に捧げ、神の子孫である天皇陛下も召し上がります。
そして、また来年の豊作を願うという大事な行事なのです。
日本人は稲の実りなしに、ここまで発展はしてこられませんでした。
現代に生きる私たちは食物への感謝の気持ちが希薄になってしまっていますが、新嘗祭について知り感謝の気持ちを取り戻していきましょう。