「北菜種御供(きたのなたねごくう)」という言葉は、俳句の季語として知っている人はいるかもしれませんが、どんな意味があるのかなど、詳しいことは知らないという人も多いものです。
ここでは「北菜種御供(きたのなたねごくう)」について、詳しく意味や、歴史的な背景など「北菜種御供(きたのなたねごくう)」に関係していることを紹介していきます。
関わりの深い菅原道真公を祀っている、太宰府天満宮や北野天満宮の行事なども合わせて紹介していますので、参考にしてみてください。
目次
北野天満宮の北菜種御供について知っておこう
2月25日は菅原道真公の忌日
毎年2月25日に北野天満宮で行われている「北菜種御供」という行事。
これはあの菅原道真公を祭神としている、全国の天満宮で行われている祭礼です。
2月25日というのは、祀られている菅原道真公の命日が、延喜3年(903年)2月25日であることが理由となっていて、この日に行われるようになりました。
「菜種」の語源
菜種というのは、菜の花のことなのです。
北菜種御供では、菜の花を神饌に挿して献じたり、神官の冠に挿してあります。
菅原道真公の魂を「宥める(なだめる)」という意味が「菜種(なたね)」の語源となっているのです。
梅花祭とは
2月25日に行われる北菜種御供のことを、「梅花祭」とも呼びます。
もともと北菜種御供では、菜種(菜の花)を献花されていたのですが、現在では梅の花が使われているのです。
しかし神官の冠に挿されているのは、現在でも変わらず菜の花。
その理由は、菅原道真公が生前梅の花をとても愛していたこと、北菜種御供が行われる2月25日の頃には、菜の花を用意することが難しいことなど、諸説あります。
梅花祭では、本殿前の拝殿で参拝が行われたり、三光門前広場で「梅花祭野点大茶湯」が行われたりと、たくさんの参拝者でにぎわう日となるのです。
北野天満宮のご祭神菅原道真公について
右大臣となるまで
承和12年(845年)6月25日に生まれた菅原道真公は、平安時代の貴族であり、学問の神様として広く知られていますが、それもそのはず、幼少期から学問の才能を発揮していたのです。
弱冠5歳で和歌を詠む、11歳では漢詩を詠むなど、当時は「神童」として称えられていました。
その後の菅原道真公は青年期も勉学に励み続け、学者としての最高位である文章博士(もんじょうはかせ)にまで上り詰めたのです。
このころには学問だけにとどまらず、弓の腕前も百発百中と素晴らしいもので、文武両道として名を馳せていました。
菅原道真公のことを高く評価していた、宇多天皇の元で政治の中心人物として活躍し、その後右大臣となって、醍醐天皇の時代と変わっても、国の発展に尽力したのです。
大宰府への左遷と死
右大臣として国のため、人のためと、尽力していた菅原道真公なのですが、左大臣の藤原時平の政略によって、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されることになったのです。
冒泰4年(901年)2月1日に、京を離れ大宰府へと向かうことになった菅原道真公。
大宰府に着いてからの菅原道真公の生活というのは、とても厳しいものでした。
食べるものもままならず、身なりを整えることも難しかったにも関わらず、ただただ皇室の安泰や国家の平穏を願い、自らにかけられた濡れ衣ともいえる罪の潔白を点に祈り続けていたといわれています。
そしてそんな生活を続けること2年が経った、延喜3年(903年)2月25日に59歳でその生涯を閉じたのです。
菅原道真公の死後、朝廷で無罪が証明されることとなり、太宰府天満宮に「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」として祀られることとなりました。
怨霊伝説と北野天満宮
菅原道真公の死後、たくさんの不可解な出来事が起こりはじめました。
延喜6年(906年)、左遷に加担した中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)が40歳という若さで苦しんだのちに死を遂げています。
延喜8年(908年)、菅原道真公の弟子だったにも関わらず、失脚・左遷へと加担したとされている藤原管根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて即死。
翌年には、左遷を企てた張本人でもある藤原時平が、原因不明の病を患い39歳で亡くなりました。
延喜13年(913年)、菅原道真公の後釜として右大臣に就いていた源光(みなもとのひかる)が、狩りをしている途中で乗っていた馬ごと底なし沼にハマってしまい、そのまま行方不明となり、遺体も見つかっていません。
延長1年(925年)には、醍醐天皇の皇子・保明親王(やすあきらしんのう)が21歳で、2年後の延長3年(925年)には、保明親王の子どもである慶頼王(よしよりおう)がわずか5歳で亡くなっています。
延長8年(930年)、たくさんの人が集まっていた内裏の清涼殿では突然、真っ黒な雲に覆われたか思えば雷が鳴り響き、清涼殿を直撃。
多くの人が焼死し、左遷に加担していた大納言・藤原清貫(ふじわらのきよつら)は雷が胸に落ちて即死、ショックを受けた醍醐天皇も倒れ3か月後には崩御してしまったのです。
菅原道真公の左遷に関わったものの死が相次いで起こったことと、ほかにも飢饉や病気がまん延したことから、「菅原道真の怨霊による祟り」だと恐れられていたのです。
その後も不可解なことは止まらず、菅原道真公の祟りを鎮めるために建てられた社を増築したものが、現在の北野天満宮になります。
大宰府天満宮との関係
太宰府天満宮は、福岡県にあり、菅原道真公を祭神として祀っている天満宮です。
京都にある菅原道真公の祟りを鎮めるために建てられた北野天満宮とともに、全国にある12000社の天満宮の総本社とされています。
太宰府天満宮は、江戸時代の終わりごろまでは「安楽寺天満宮」と呼ばれていたのですが、後に「大宰府神社」と名を変え、現在呼ばれている「太宰府天満宮」となったのは、戦後11947年のこと。
菅原道真公の祟りが恐れられたことから、菅原道真公が眠っている安楽寺に919年「安楽寺天満宮」を建てて供養し始めたことが太宰府天満宮の始まりなのです。
その際に菅原道真公は神様として祀られることになり、学問の神様としてたくさんの人から信仰を集めることになりました。
天満宮の天神様
菅原道真公を祭神として祀っている神社のことを「天満宮」といいます。
そして「天神様」というのはもちろん、菅原道真公のことですが、菅原道真公の死後に起こった最大の祟りとされた清涼殿の落雷から、雷神と結びつけられたことによって「天神様」とされるようになったのです。
また菅原道真公の死後に無実が証明され贈られることになった神号を「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」といいます。
「北菜種御供」は初春にふさわしい季語と美しい俳句を紹介
2月の季語である「北野菜種御供」
北野菜種御供は、菅原道真公の忌日でもあり、京都の北野神社のお祭りの名前でもありますが、春の季語にもなっています。
同じく「菜種御供」「北野梅花祭」「梅花御供」「天神御忌」「道真忌」も、初春の季語です。
北野菜種御供を使った俳句には「本殿に琴運び込む菜種御供/椹木啓子」や「尼宮に風まださむき菜種御供/高木石子」「一つづつの小さき黄だんご菜種御供/物種鴻兩」「ともしびの漏れくる菜種御供の森/加藤三七子」などがあります。
「梅花御供」と道真公の詠んだ梅の花にまつわる歌
初春の季語に「梅花御供」や「梅花祭」というものもあります。
この言葉を使った俳句には、「朗々と祝詞(のりと)清しき(すがしき)梅花御供/高嶋象子」「梅花祭舞妓の髪に雪が降る/尼崎たか」「西陣の帯の売れ行き梅花祭/星野野風」などがあるのです。
また菅原道真公が愛したとされる、梅の花。
左遷となり京を発つ際に、自宅に植えてあった梅の花に別れを告げるために詠まれたとされる、有名な和歌があります。
「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」というもの。
この意味は「春風が吹いたら、その香りを風に託して太宰府まで送り届けてくれ、梅の花よ。主人である私がいないからと、春を忘れてはいけない」というものです。
ほかにも「ふる雪に 色まどはせる梅の花 鶯のみやわきてしのばむ」さらに5歳の時に詠んだとされる「梅の花 紅(べに)の色にも似たるかな 阿呼がほほにつけたくぞある」など梅の花を使った歌をたくさん遺しています。
初春の季語「道真忌」
初春の季語の一つに、「道真忌」という言葉もあるのです。
季語といっても親季語ではなく、子季語に分類されています。
「かたくなに枝垂れぬ柳道真忌/竹下しづの女」「車塚掃きに雑仕や道真忌/耕易」「黒髪に菜の花挿して道真忌」などといったものがあるのです。
初春の季語「天神御忌」
「天神御忌(てんじんごき)」という言葉も、春の季語です。
「道真忌」と同じで、親季語ではなく子季語に分類されています。
御忌というのは、年忌を敬って言う言葉なので、意味も「道真忌」と全く同じ意味になるのです。
北菜種御供(梅花祭)の神事について
神立とは
北菜種御供の神事は、本殿の前の拝殿の中で行われます。
神事の撮影は禁止されているので、本殿と拝殿の間の扉から見ることが出来るのです。
この神事では特別なお供え物がされるのですが、その一つが「紙立(こうだて)」というもの。
「紙立(こうだて)」とは、両脇に供えられているものです。
仙花紙という厚手の紙で筒を作り、その中に玄米が入っています。
そこに白梅を差したものを右側に、紅梅を差したものを左側に供えるのです。
筒の大きさは、500ミリリットルのペットボトルの半分ほどの高さをしています。
白梅は男性の大厄、紅梅は女性の大厄にちなんでいて、それぞれ42本と33本となっているのです。
大飯・小飯とは
「大飯・小飯」というものも、特別なお供え物の一つです。
これは「大飯(おおばん)・小飯(こばん)」と読みます。
四斗のお米を蒸したもの、ご飯が盛り付けられていて、両脇に供えられた白梅・紅梅の前に置かれるのです。
白梅の前に置かれるものの方が、少し大きめになっています。
梅花祭とともに開かれる「野点・北野大茶湯」
北菜種御供と同じ日に、三光門前広場で開催されている「梅花祭野点北大茶湯」。
毎年多くの人が訪れ、楽しんでいますが、1587年に豊臣秀吉が北野天満宮で行った「北野大茶湯」という茶会がもととなって、昭和27年から毎年開始されるようになったものです。
菅原道真公が愛したとされる梅の花が咲きほこる中で、上七軒の芸妓さんや舞妓さんたちがお茶を点ててくれて奉仕してくれます。
梅花祭野点大茶湯に参加するには、杯服券の購入が必要です。
数に限りがありますので、予約しておくことをおすすめします。
運がよく空きがあれば、当日でも参加は可能ですが、こればかりは当日になってみなければわかりません。
とても華やかなお茶会ですので、北菜種御供に参拝する際には参加してみたいものです。
北野天満宮・大宰府天満宮のご利益と祭事
学問の神様と学生や受験生たちにご利益のあるお守り
北野天満宮・太宰府天満宮に祀られているのは、言わずと知れた学問の神様として有名な菅原道真公。
一年を通してどちらの天満宮にも、日本全国の学生や受験生、資格試験・就職試験などを控えている人たちが、毎年数多く参拝に訪れています。
菅原道真公の力にあやかって、みんな合格祈願や、学業成就を叶えようと参拝するのです。
太宰府天満宮では毎年10月1日から31日にかけて、「特別受験合格祈願大祭」が行われています。
この期間に合格祈願を申し込んだ人には、期間限定のお札やお守り・絵馬などが授与されるのです。
お守りも1000円前後から購入でき、学業鉛筆などもあります。
節分の行事
太宰府天満宮では、節分までの数日間「節分厄除祈願大祭」が開催されています。
この期間に葉、一年の厄除けを願ってたくさんの参拝者が訪れ、節分当日には「豆まき神事」が行われるのです。
太宰府天満宮には、「梅の木の下でひょうたん酒を飲むと、難を免れる」という伝承があることから、この期間に厄除祈願を受けた参拝者に対して、お祓いをした後にご神木である「飛梅」の木の下で、ひょうたん酒を授けてもらえます。
北野天満宮では、一年の厄除け・病を除く祈りを込めた「節分祭」と「追儺式(ついなしき)」が行われているのです。
節分祭の後には、神楽殿で上七軒の芸妓さん舞妓さんによる、日本舞踊の奉納や、豆まきが開催されています。
大芽の枠繰りと夏越天神
太宰府天満宮でも、北野天満宮でも、夏には「大芽の枠繰り」という行事が行われます。
これは、本殿の入り口に茅草(かやくさ)で出来た大きな輪が設置され、この輪をくぐることで、無病息災を願うというものです。
この茅草で出来た輪のことを「茅の輪(ちのわ)」と呼びます。
茅の輪には正しいくぐり方が決まっているので、作法を守ってください。
まず茅の輪の前で一礼をして、本殿に向かって「左→右→左」とくぐり、二礼二拍手一礼をして神前に向かう、というのが正しい作法です。
太宰府天満宮では、同時期に「夏の天神祭り」が開催されます。
北野天満宮でも、「御誕辰際」が行われるのです。
これは祭神である菅原道真公が、承和12年(845年)6月25日に生まれたことにちなんで、行われている行事。
いわゆる誕生祭と呼べるものなのです。
大福梅の土用干し
夏になると「大福梅の土用干し(おおふくうめのどようほし)」という行事が行われます。
塩漬けをした梅の実を、巫女さんや神職がむしろの上に広げるのです。
この「大福梅(おおふくうめ)」はお正月の縁起物とされていて、おさ湯やお茶に入れて飲むことで、無病息災のご利益があるとされています。
土用干しで干された梅は、4週間かけてカラカラに干され、再度塩をまぶした後、貯蔵されるのです。
ここで貯蔵された大福梅(おおふくうめ)は、お正月の準備を始める「事始め」の頃から、年の瀬までの間、北野天満宮で手に入れることが出来ます。
太宰府天満宮でも、同じ行事が行われるのです。
北野天満宮の「北野祭」
北野天満宮では、「北野祭」というとても大切な例祭が、毎年行われています。
「北野祭」は、北野天満宮が創建された翌年から始まった歴史ある例祭です。
永延元年(987年)に一條天皇の勅使(ちょくし)をお迎えしたことが始まりとなっています。
北野天満宮にとっては、国家の祭祀となった、一年のうちで一番大切な行事でもあるのです。
例祭の祭典自体は1時間足らずと短いのですが、皇室の繁栄・国家安泰・五穀豊穣・無病息災を祈願しています。
占い師 RINのワンポイントアドバイス「北菜種御供は菅原道真公の鎮魂の意味が込められている」
別名を「梅花祭」と呼ばれ、キレイな梅の花を観賞するたのしいお祭りでもありますが、その裏には悲しい話があったということを知って改めて「梅花祭」を訪れてみると、また違った感情を抱くもの。
ただ楽しむだけではなく、時代背景を知ってみると、いろいろな感情が浮かんできます。