京都には日本を代表するお祭りが多数存在します。祇園祭や葵祭は、別の地域からの観光客もたくさん訪れる祭りです。
でも、実はローカルなお祭りもたくさんあるのです。その一つがずいき祭りです。ずいきと言えば、ほかの野菜みたいに目立たない野菜だから不思議ですよね。
だからこそ、そんな不思議なずいき祭りについて調べてみました。京都のローカルなお祭りにも興味を持ってみませんか?
目次
ずいき祭りの歴史|毎年10月1~5日まで開催
ずいきとは野菜
ずいきとは、野菜です。厳密には、同じ秋の味覚のかぼちゃのように野菜の実そのものではありません。
ずいきは、里芋やハスイモの葉柄のことで食べることができます。漢字でそのまま芋苗と記すこともあります。
ずいきは3種類に分けられます。一番、主流なのが赤い茎を持つ赤ずいきです。ほかには、ヤツガシラなどを軟白栽培した白ずいきやハスイモの茎の青ずいきがあります。
南西諸島では、タイモの茎がを利用します。赤ずいきが主流ということもあり、一般的にずいきと呼ばれるものは赤ずいきのことを指しています。
ずいきも乾燥させると名前が変わり、芋がらと呼ばれることもあります。語源ははっきりしていないと言われています。
髄茎の略が有力とされています。夢窓疎石の和歌に基づいていると言われているのです。ほかにも皮をむいてイモの茎の 髄を食べるということが語源となったという説もあります。
そんな、ずいきの食べ方に関しては後述します。
900年代に菅原道真の木像にお供えをしたのが始まり
ずいき祭りが行われるのは京都市内にある神社北野天満宮です。北野天満宮は、学問の神様として有名だと思います。
その北野天満宮を創建したのは菅原道真の怨霊を慰めるためであると言われています。北野天満宮が創建されたのが947年なのでずいき祭りができたのもそのあとですね。
菅原道真は、平安時代に学者や政治家としても活躍した頭の良い人です。その菅原道真を祀っている神社なのです。
日本にある多くの神社では、天照大御神や大国主などの神様が祀られていることが多く人間を祀った神社は少し珍しいとも言えます。
そんな菅原道真をお祀りする天満宮としては、太宰府天満宮や大阪天満宮も有名ですが実は日本全国に約一万社以上もあるのです。
太宰府天満宮も規模が多いのでそちらが総本社と思いがちですが実は天満宮の総本社は北野天満宮なのです。
天満宮と言えば、学問の神様として人気があり、受験シーズンなどにはたくさんの受験生が参拝します。
そして、学問についての祈願だけでなく菅原道真が好きだった梅を植えている場所も多いことから梅の名所になっているところも多いでしょう。
ざっと北野天満宮について紹介しましたが、次はずいき祭についてです。ずいき祭りの起源は五穀豊穣を願うことから始まりました。
地元の人たちが今年の収穫に際して、自分で作ったものを菅原道真に供えたことが始まりと言われています。
ずいきの名前は、は中京、10月1日から4日にかけて区西ノ京御輿ヶ岡町の御旅所を平安。御旅所に奉安するずいき神輿に由来しているそうです。
明治時代になってから規模が大きくなり、北野天満宮周辺を回るようになったそうです。
五穀豊穣を祝うお祭り
ずいき祭りは、五穀豊穣を願うお祭りです。もとは、秋に収穫することができた作物を感謝の気持ちをこめて菅原道真が大宰府で彫った木像に供えたのが始まりと言われています。
この時の作物は、芋やずいきに限りません。お米や果物などたくさんの作物を並べていたそうです。
ずいき祭と呼ばれているのは、御旅所に飾られる神輿に秘密があります。ずいき祭りの神輿は野菜で豪華に飾ります。
その時に使われる野菜はずいき芋だけではありません。赤茄子、栗、柿、稲穂など秋の味覚と呼ばれるものも使い神輿を作るのです。
神輿のデザインは毎年別のテーマを設定して飾るので年によってデザインも違い楽しむことができます。
ただし、このずいき神輿は室町時代ごろには既に実施されていた形だったのですが応仁の乱で途絶えてしまったそうです。
その後、明治時代になった頃にずいき神輿が復活し現代にいたっています。神輿がある方が華やかで良いかもしれませんね。
昔は、今と違い科学が進歩していないことから秋にたくさんの収穫を得るということが確約されていない状態でした。
なので、たくさん収穫することができるのであればそれは奇跡のようにありがたいことだったはずです。
なので、きちんと今年の収穫にお礼をし来年の収穫も同じようにできるように願うというお祭りなのです。
毎年10月1日~5日に開催
北野天満宮で実施されているずいき祭の日程は、10月1日から5日までとなっています。秋の収穫に感謝するお祭りなので実施は収穫の頃になっています。
季節が良い時期なので、神輿で町を練り歩くにもちょうどよいかもしれませんね。
ずいき祭りのスケジュール
ずいき祭りは、10月1日から4日までの5日間の日程となっています。1日目の1日には神幸祭が実施されます。
天神さまを本社より西ノ京の御旅所にお遷しする儀式を行うのです。2、3日目は御旅所にて献茶祭などが斎行されます。
4日目は、還幸祭が行われます。こちらは、1日目と逆に天神様を北野天満宮本社に戻す儀式を行うのです。
ここで祭りは終わってしまうと思いきや、あと1日残っています。最後は田舞がメインになります。
5日目には15時半から后宴祭が実施されます。后宴祭では、八乙女舞が奉納されるのです。舞は1日の神幸祭の時に御旅所で奉納されるのと同じ舞です。
最初に本殿にて行われる神事で舞が奉納されます。神事中の舞は公開されていませんが、隙間から舞っている雰囲気感じることは可能です。
その非公開の神事が終わると、16時頃に本殿前にて一般に公開される舞が披露されます。八乙女は氏子地域から選ばれているらしいです。
田舞はもともと五穀豊穣を願い舞われる舞です。なので、五穀豊穣を願うずいき祭りにはぴったりでしょう。
ずいき祭りの名前にもなっているずいき神輿は、ずいき祭りの期間中の還幸祭で街を巡行します。
北野天満宮についておさらいしよう!
北野天満宮の歴史
北野天満宮の始まりは平安時代の頃となります。当時、都で右大臣を務めていた菅原道真は、都から左遷されてしまいました。
その左遷されてしまった先が、こちらも菅原道真にゆかりがあると言われている太宰府天満宮がある場所福岡県の大宰府です。
ただ、この時の左遷されてしまった原因は藤原時平に中傷を広められたからだと言われています。
現代のSNS中傷に近いものがありますね。ただ、菅原道真はそのまま太宰府天満宮で障害を閉じることとなり京都へ戻ることができませんでした。
そのころ、京都では落雷などの災害が相次ぐようになったそうです。その災害は京都に戻ることができないままに亡くなってしまった菅原道真だと言われるようになりました。
そこで災害が続くのをそのままにする訳にもいかないので、菅原道真の怨念を鎮めようということになりました。
菅原道真の怨霊を鎮めるために947年に創建されたのが北野天満宮なのです。987年には、天皇の勅使が訪れて祭事を行う勅祭が開かれました。
その時に、一条天皇から北野天満宮天神という名前を授けられたのです。天満という名前の由来は、道真の死後贈られた神号の天満大自在天神が元となっているという説が有力です。
北野天満宮はそれから朝廷から厚い崇敬を受けるようになりました。北野天満宮は、その後も菅原氏、藤原氏、足利将軍家から崇拝され続けます。
1587年には、北野大茶湯という茶会が豊臣秀吉によって開催されます。江戸時代に入った頃には菅原道真の怨霊を鎮める意味合いは薄れてきました。
そこからは、無念の死を遂げて怨霊になってしまった菅原道真よりも優れた学者としての道真がクローズアップされて学問の神様として親しまれるようになったのです。
江戸時代に寺子屋で菅原道真を学問の神様として祀ったことが始まりらしいですよ。今では、合格祈願などの学問成就のために参拝することの方が多いですよね。
祀神は菅原道真公
北野天満宮の祀神は菅原道真公です。これはすごく珍しいことなのです。神様でなく人間が祀られている神社は日本の中でも数少ない神社となっています。
現代人からすれば神様も平安時代の人間も大して変わらないのかもしれません。でも、今生きている人が亡くなってその人が祀られている神社が創建されたら驚きですよね。
しかも、何かを願うというよりは無念の死を慰められるために創建された神社なので人々の願いを叶えるという意味合いは弱かったのだと思います。
ただ、怨霊という意味合いは徐々に薄れてきました。菅原道真公の亡くなった当初は京都で起こる災害を防ぐためにみんなで一緒に成仏を願う場という要素が大きかったのでしょう。
だけど、そんな怨霊による呪いも1000年以上たった今であればほとんど実感もないでしょう。それと引き換えに頭が良い学者だった一面がクローズアップされるようになったのです。
だから、今は学問を祈願する神社となっています。ただ、北野天満宮が創建された理由を考えると少し微妙な気がしてきますよね。
菅原道真公自身は、自分が長期間怨霊として扱われ続けるよりも今のように学問の神様としてみんなに信仰してもらえる方が良いのかもしれませんね。
無念があったとしてもその怒りは何年も続くものではないということを生きている私たちに教えてくれているかのようです。
全国の天神さんの総本山
北野天満宮は、全国の天神さんの総本山です。天満宮と言えば、北野天満宮だけでなく菅原道真公が左遷された地の太宰府天満宮も有名ですよね。
なので、そちらを総本山とする説もあるので心にとめておいてください。ちなみに太宰府天満宮は、菅原道真公が左遷されて生涯を終えることとなった土地です。
その菅原道真公が亡くなったときに京都で災害が相次いだことから、その魂を慰めるために創建されたのが北野天満宮なのです。
実際は、太宰府天満宮の方が北野天満宮よりも早く建てられていたようです。もしかすると、京都が都だから総本山となったのかもしれませんね。
少し違うかもしれませんが、現代でも会社を経営していると途中で都である東京に本社を移してしまう場合も多いです。
それと似たような感覚もあったのかもしれません。ほかには、菅原道真公自身が京都に戻りたかったという願いが怨霊になってしまうほど強かったとされていることも理由の1つでしょう。
もしかすると、科学技術の発展した現代で同じことが起きていたら偶然で片付けられていたのかもしれません。
ただ、現代でも科学で説明をすることが難しいこともたくさんあるので迷信であるとは言い切れないともいえるでしょう。
大宰府天満宮と北野天満宮
日本には菅原道真公を祀っている神社が複数あります。その中でも日本を代表する神社は太宰府天満宮と北野天満宮の2つです。
どちらも菅原道真公にゆかりがある神社ですが、どう関係するのか?という意味では大きく違っています。
太宰府天満宮は、菅原道真公が無実の罪によって京都から左遷された地です。結局、そこで生涯を閉じることとなりましたが、その亡くなった場所が今の太宰府天満宮です。
菅原道真公が亡くなった後に門弟が御亡骸を弔うために牛車に乗せて進んだところ牛が動かなくなってしまったので埋葬されることとなりました。
その埋葬地に創建されたのが太宰府天満宮なのです。太宰府天満宮が創建されたのが905年で北野天満宮が947年頃とされているのが大宰府の方が先ですね。
菅原道真公が京都に帰りたかったがために京都の町に災害を起こしたと言われていることもあり、亡くなった後に慰霊を目的として創建されたのが北野天満宮なのです。
どちらの神社もなんとも言えない経緯で創建されていますよね。公式HPにおいてはどちらも自社が天満宮の総本山であると記載されています。
順番で言えば、太宰府天満宮の方が先なので総本山とも言えるのかもしれません。でも、歴史が長い方が良いとも言えませんよね。
京都の北野天満宮が総本山とされているのは、当時の首都が京都だったことも理由かもしれませんね。
今よりも昔は都の力が強かったとも聞きます。だから、首都であったことから天満宮の総本山は京都へとなったのかもしれません。
一応、大宰府と北野天満宮以外にも日本には天満宮がたくさんあります。受験の時期には近くの天満宮へと参拝に出かけた経験がある人も多いでしょう。
機会があれば総本山と言われている天満宮へと参拝に行ってみても良いかもしれません。
日本三大怨霊とは?
日本には、日本三大怨霊と言われている人物たちが存在しています。その3人は、全て人間であった人々です。
それぞれ怨霊を鎮めるために神社や塚が創建され祀られています。人間が祀られている神社はほぼないと言っても良いのではないでしょうか?
その1人目が菅原道真公です。菅原道真公は、もともと都にいた役人でしたがいわれもない中傷によって福岡に左遷されてしまいます。
事実でないことにより左遷をされ、挙句その左遷先で亡くなってしまったことから怨霊になってしまったと言われています。
確かに無念ですよね。その魂を鎮めるために創建されたのが北野天満宮なのです。2人目は、崇徳天皇です。
天皇と言えば、昔から身分が高い人物なので意外ですよね。崇徳天皇は、平安時代に鳥羽天皇の子供として生まれました。
でも、崇徳天皇の母は後白河上皇の愛人であったと言われており評判がすごく悪かったのです。
後白河上皇は、自分の愛人を息子である鳥羽天皇へ嫁がせたことから崇徳天皇は息子の子供ではなく祖父の子供なのではないか?という噂が絶えなかったと言われています。
その話は今では事実かどうかは不明ですが、鳥羽天皇が自分の息子を嫌っていたというのは周知の事実だったようです。
第三者から見れば親と妻が悪く、息子が悪い訳ではないのがわかりますが当事者になってしまうとなんとも言えない感じだともいえます。
その後、親子間が仲悪いまま崇徳天皇が天皇に即位しました。この天皇即位には、祖父である白河上皇の意向によるものでした。
幼い孫を天皇にすることで裏から政治を操ることができると思ったのです。でも、そんなことがスムーズにいく訳がありません。
当時、天皇になったばかりの鳥羽天皇は自分こそが政治を行うことができると思っていたのです。
ただ、実際は力が弱かったこともあり白河上皇の思うままになってしまいました。ただ、権力を持ちたいだけでなく白河上皇が崇徳天皇の実親なのではないか?という憶測はずっと飛び交っていました。
でも、白河上皇もなくなってしまいます。その後は、崇徳天皇を気に入らない鳥羽上皇が政治の実権を握ります。
その後、新たに生まれた鳥羽上皇の子が天皇になり崇徳天皇は政治の実権を失ってしまうのです。
崇徳天皇は、政治から離れ好きだった和歌の世界で生きるようになりますが鳥羽上皇もなくなってしまいます。
鳥羽上皇が亡くなった後は、恨みを抱いている崇徳天皇が復讐する機会を狙っているという噂が都に流れます。
その噂によって崇徳天皇が讃岐に島流しに遭ってしまうのですが、実はこの復讐の噂は嘘で崇徳天皇ははめられたのです。
讃岐で崇徳天皇は、仏教を心の支えにするようになります。純粋な信仰心から写経を行い、その写本をお寺に収めてもらうために京都へ送りました。
だが、朝廷の方はその写本を写経と思わず呪いの書と取ってしまい崇徳天皇を怒らせてしまうことになりました。
今までの不遇にストレスが溜まっていたのかもしれません。そこで、自ら舌を噛みきりその血を使って本当に呪いの書を書いて朝廷に送ったのです。
その後は、爪や髪を伸ばし続け生きながら天狗になったと言われています。死後は、そのようなエピソードもあり怨霊とされています。
今でも崇徳天皇を祀る神社は、香川の金毘羅宮と京都の安井金毘羅宮が代表的ですね。安井金毘羅宮は縁切りのご利益があると有名です。
3人目は、平将門です。平将門も同じくいわれのない中傷が原因で怨霊となっています。始まりは領地の相続を巡っての争いです。
争いの行為が朝廷への反逆とみなされてしまうのです。そして、平将門の追討令が出されてしまいました。
平の将門の首が討ち取られますが、その首は当時の都である京都へと送られ、河原に晒されることになったのです。
ただ、奇妙な出来事が頻発するようになってしまいました。首が何ヶ月も目を閉じない、夜中に歯ぎしりをするという噂が多かったのです。
人々は、その奇妙な噂を平将門の強い怨念であると恐れていました。ついには、首が体を探して関東へ飛んで行ったという伝説があります。
京都から東京まで飛んでいくなんて驚きですよね。その飛んで行った場所が今の首塚である千代田区大手町です。
そんな栄える場所にあらかじめ飛んで行ったことにも驚きます。平将門の首塚に関する奇妙な出来事に関しては聞いたことがある人も多いでしょう。
移転させようとすると多数の死人が出たり、災害が起きたりと良くないことが毎回起きます。特に現代の物差しで見たときにすごく立地が良いので動かしたいと思う人も多いのではないでしょうか?
でも、良くない不幸なことがたくさん起きてしまうことから誰も触れなくなっていったのです。現代の科学でも解明することができないことが起きているのはすごく怖いですよね。
北野天満宮の代表的なお祭り
北野天満宮では、ずいき祭り以外にもお祭りが実施されています。筆始祭と天満書、節分、梅園公開、雷除大祭、御誕辰祭、大茅の輪くぐり、余香祭、新嘗祭、献茶祭などです。
筆始祭と天満書は、学問の神様らしいお祭りです。愛用の書道具をお供えして書道などの芸事の上達を願うのです。
節分は、ほかの神社と同じく儀式をおっこないマス。梅園公開は、菅原道真公が愛したと言われる梅の花を公開します。
雷除大祭は、雨乞いや豊作の祈願から始まり雷除け祈願へと変化していったそうです。今では、ゴルファーなど雷に影響を受けてしまう仕事の人が多く訪れます。
御誕辰祭は、菅原道真公の誕生日を祝うお祭りです。大茅の輪くぐりは、ほかの神社と内容は同じですが、北野天満宮では京都最大の茅の輪を用意するので特徴的です。
余香祭は、在りし日の菅原道真公のように歌を詠むお祭りです。新嘗祭は、収穫に感謝するお祭りなので性質としてはずいき祭りに近いものがあるでしょう。
献茶祭は京都の茶道の4つの流派の家元が集まるお祭りとなっており、地域の特色が色濃くでています。
ずいき祭り見どころはやっぱり御神輿!
屋根は芋ずいき
ずいき祭りの神輿は、屋根にずいきが飾られています。千日紅、水稲、麦、赤ナズなどの野菜も使われており、手作り感あふれる見た目です。
色とりどりですごくかわいくて目にも楽しいでしょう。食べ物で神輿を飾るなんて面白いですよね。
乾物なども使って表現!
https://www.youtube.com/watch?v=jTb-mgtftQE
ずいき神輿は、その名前の通りにずいきなどの野菜で装飾されている神輿です。でも、使われているのは野菜だけではないのです。
乾物、湯葉、蔬菜、麩などを使い隙間なく覆うのです。それらのアイテムによって、その時に話題のものを描いたりします。
最近では、パンダや将棋の人気棋士などの様子が描かれていたようですよ。今年のデザインを見るのも楽しみの1つかもしれませんね。
四面は新穀で伝統的に飾る
神輿の四面の飾りつけは、その年に収穫された穀物を使用して飾りつけを行います。目立つ部分は今年の話題の何かですが四面は少し違います。
神輿の四面は、謡曲や昔話を題材にします。多くは、人物や花鳥獣類が多くなるでしょう。昔ながらのものと新しいものを組み合わせるというものは良いですよね。
神輿行列
ずいき祭りの神輿では、神輿行列が行われます。ずいき神輿の行列は、還幸行列とは違うルートを使用します。
でも、御旅所へ戻る御旅所~御前下立売のルートにおいては、ずいき神輿と還幸行列を順番に見ることができます。
神輿だけでなく、平安装束を身にまとっての行列なので眺めるのも風情があって面白いでしょう。
祭りの終わりは八乙女による田舞の奉納
八乙女による田舞は、祭りの最終日に実施されます。祭りの1番の見どころと言われる行列が4日目なのでその次の日です。
最初に奉納される舞は、非公開です。ただ、締め切られた空間で実施される訳ではないので隙間から眺めることもできるみたいです。
また、その後の田舞に関しては一般公開で実施されます。誰でも気軽に見ることができるのです。八乙女は氏子地域から選ばれています。
田舞は五穀豊穣を願う舞です。なので、10月という季節にもピッタリでしょう。そもそも、ずいき祭りにも収穫祭という意味合いがあるので田舞なのかもしれませんね。
ずいき神輿を眺めた後は、もうお祭りが終わってしまったような感覚に陥ってしまうかもしれません。
だけど、せっかくならずいき祭りの最後である田舞まで楽しみましょう。
ずいき祭りにちなんだ行事レシピ
ずいきの炊いたん
ずいきは、生で食べるものでなく火を通して食べます。京都を含む関西エリアの言葉では、煮物や煮炊きしたもののことを炊いたんと言います。
なので、ずいきの炊いたんは簡単にいうと煮物ですね。ずいきの食べ方として決まりはありませんが、煮物にして食べられることが多いと思います。
ずいきは産後の女性にも!
ずいきは、いつ食べても良い食べ物です。普通の野菜と同じタイミングで食卓にあげましょう。また、干したずいきは出産後の女性に良いと言われています。
悪露をおろすと言われているので産後の女性に食べさせる場合も多いです。でも、産後の女性しか食べてはいけない食材ではありません。
ずいきの炊いたんの栄養素
ずいきの炊いたんは、栄養があります。戦時中に食べるものが何もなくて、毎日芋のつるを食べていたという話を聞いたことがある人もいえるはずです。
ずいきは、炭水化物も含まれており意外とエネルギーも大きいです。また、カルシウム、鉄、ビタミンなどの栄養素もたっぷり含まれています。
また、独特の歯ごたえや歯ざわりのおかげで噛まないと食べることができず少ない量でも満腹感を得ることができるでしょう。
現代ではダイエット食としてもぴったりかもしれません。
ずいきの炊いたんレシピ
ずいきのレシピについて初会します。ずいきは、強い灰汁があるので下処理を行うことが大切です。
皮を剥いたずいきを酢を加えた熱湯でゆでましょう。そのあとに水にさらしてあく抜きをします。次に食べやすい大きさに切って軽く絞ります。
だし汁に調味料を加えてから湯通しした油揚げを加えます。最後にずいきを入れて煮ると完成です。
トッピングの時にしょうがを加えると良いでしょう。
▼ずいきの炊いたんのレシピについて詳しく知りたい方はコチラ▼
京都の代表的な祭り
葵祭
葵祭りは、京都3大祭りの1つでもあります。祭儀は、宮中の儀、路頭の儀、社頭の儀で構成されていますが、最近では宮中の儀式は行われていません。
葵祭りの始まりは、平安時代であると言われています。そのころの京都は飢饉や災害によって多くの人が亡くなってしまったこともあり厄払いの意味もあると言われています。
葵祭りが始まって以降は、五穀豊穣に恵まれ国民を穏やかに暮らすことができるようになったと言われています。
歴史の混乱の中で葵祭は途絶えていた時期もありましたが、江戸時代に祭りが再興されました。
葵祭りが行われるのは、京都の下鴨神社と上賀茂神社で5月15日に行われます。路頭の儀と呼ばれる大名行列は平安貴族の装束を身にまとうのでタイムスリップしたかのようです。
牛車まで登場し、御所車には季節の花である藤も飾られており季節感もあります。現代の葵祭りは観覧席も設けられています。
今では、京都だけでなく全国から葵祭りを観覧しに訪れる人がいるくらいのお祭りです。興味がある方は実際に足を運んでみましょう。
祇園祭
https://www.youtube.com/watch?v=QZOdVVXqxPo
祇園祭は、京都3大祭りの1つでもあります。祇園祭は、日本三大祭の方にも数えられているお祭りです。
今では京都だけでなく日本の夏の風物詩となっているでしょう。そんな祇園祭の始まりには諸説あります。
でも、京都での流行病を終息させるために厄払いとして行ったという説が有力でしょう。それから徐々に規模が大きくなり、現代のように華やかなお祭りへと変化していったそうです。
室町時代に現代と同じく山鉾が登場しました。そして、町々で趣向を凝らして山鉾を作るようになったそうです。
そんな祇園祭は7月1日から始まり、14日から16日の宵山が行われます。17日に1番盛り上がる山鉾巡行が行われます。
山鉾には色々な装飾がなされていますが、さまざまな国のものなどが取り入れられておりバリエーションも豊富です。
それはあらゆるものを受け入れるという姿勢を表しているのかもしれませんね。最近は、祇園祭だけでなくお土産などのグッズも増えており楽しみの幅が広がっています。
五山の送り火
https://www.youtube.com/watch?v=zaednAQp7LU&t=2s
京都の夏の行事と言えば五山の送り火です。山に火をつけて燃やすという行事なので人目を惹きやすいとも言えます。
ただ単純に燃える山の美しさを楽しむという行事ではありません。この御璽はお盆の送り火に関連している行事なのです。
五山の送り火は、お盆の最終日である8月16日に実施されます。京都以外では、家の玄関で火をつけてご先祖様をあの世に送り出すという形が多いでしょう。
その送り火が山で行われていると思えばわかりやすいかもしれません。山に大文字を描きながら炎を付けるので大文字焼きとも呼ばれています。
この送り火は、東山・如意ヶ岳の「大」、松ヶ崎西山と東山の「妙・法」、妙見山と船山の「舟形」、金閣寺付近大北山の「左大文字」、嵯峨の曼荼羅山の「鳥居型」と約20分かけて燃やしていくのです。
この行事は今では定番化していますが実は起源がわかっていないと言われています。始まりがわからない行事が何年も続いているというのは不思議なことですよね。
時代まつり
時代祭も京都を代表する祭りです。時代祭の実施時期は、10月22日とずいき祭りと近い時期になっています。
時代まつりは、京都御所から平安神宮にて行われます。時代祭がどのような祭りであるか?というのはその名が最もよく表しています。
時代祭りも葵祭りと同じく、歴史を感じさせる衣装を着用した人々が京都の町を練り歩きます。その様子を眺めると、まるでタイムスリップしたかのような風景を見ることができます。
葵祭と違うのは平安時代だけを表現している訳じゃない部分ですね。
元々の始まりは、平安神宮の創建と平安遷都1100年を祝う行事からだったそうです。意外と歴史も短く明治28年からの始まったと言われています。
明治維新や首都が変わったことで衰退してしまった京都の町おこしとして平安神宮が創建されたそうです。
第一回目の時代祭は平安神宮にお参りする姿として行われましたが、その後は形は変化していきました。
最終的には今のように市内を巡行して平安神宮へ行くという形になりました。現在は、時代と名前通りに明治維新、江戸、安土桃山、吉野、鎌倉、藤原、延暦と7つの時代を18の行列にわけて1列ずつ表現しています。
さらに、江戸貴婦人列、中世貴婦人列、平安貴婦人列は京都の5花街が輪番で奉仕しています。
のべ2000名以上の人が参加する大きな行事となっています。衣装や調度品も子供だましでなく、本格的なものとなっているのでそれを眺めに行く人も多い行事です。
一目で京都の文化や歴史を理解することができます。京都の人だけでなく、京都の外からの訪れる観光客も楽しみにしているお祭りです。
占い師秋桜のワンポイントアドバイス「ずいき祭りは五穀豊穣を祝うお祭り」
ずいき祭りの会場は、北野天満宮よね。北野天満宮の歴史も調べてみると壮絶で驚いたかもしれないわ。
だけど、人の恨みや怨念もそんなに長く続かないのかもしれないわね。実際は、菅原道真公が誤解で左遷されてしまったように怨念自体も誤解だったのかもしれないわよ。
野菜で飾った神輿のお祭りってそれだけでも平和の象徴っぽくないかしら?平和な今に感謝しつつ、お祭りの趣旨通り秋の恵みにも感謝しましょう。
今は、作物を収穫することが当たり前のようになっているけど実際は奇跡みたいなものよ。だから、その季節にみんなで感謝するようにしましょう。