吉野花会式とは?歴史と由来&行事や名桜の見どころについてご紹介
占い師 聖子
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吉野花会式(よしのはなえしき)」という行事を、聞いたことがあっても詳しくは知らない、という人も多いものです。

また「千本桜」という言葉も聞いたことがある、知っている人も少なくないもの。

「吉野山の桜」といえば、「あっ!」と思う人もいるように、全くわからないことではないけれども、詳しく聞かれると首をひねってしまいます。

そんな「吉野花会式(よしのはなえしき)」の由来やどんなお祭りなのか、どんな歴史的背景があるのか、「吉野花会式(よしのはなえしき)」にまつわる世界遺産や重要文化財など、歴史に深く関わりのあるものや、景色が圧巻ともいえる桜の絶景ポイントなど、さまざまな観点から、「吉野花会式(よしのはなえしき)」について、詳しくお伝えしていきますので、参考にしてみてください。

目次

吉野花会式って?どんなお祭り

吉野山の桜は御神木

「吉野花会式(よしのはなえしき)」の正式名称は「花供懺法会(はなくさんぽうえ)」といいます。

この時期に満開となる吉野山の桜を、金峯山寺(きんぷせんじ)の本尊である「蔵王権現(ざおうごんげん)」にお供えをするというものです。

「吉野花会式(よしのはなえしき)」は、吉野山が一年で一番にぎわうことで、知られています。

吉野山の桜といえば、山岳宗教である「修験道(しゅげんどう)」の開祖、「役小角(えんのおづぬ)」が感得した「蔵王権現(ざおうごんげん)」を刻んだとされていて、御神木となったといわれているのです。

これ以来吉野山の桜は、献木されて、保護されてきたこともあり、「吉野花会式(よしのはなえしき)」は大きな行事になっています。

修験道(しゅげんどう)の開祖である「役小角(えんのおづぬ)」は、「役優婆塞(えんのうばそく)」とも呼ばれていて、金剛山としても知られる、葛城山(かつらぎさん)に入山して、山岳修行を積みながら葛城鴨神社に奉仕していました。

そのなかで陰陽道神仙術と密教を、山岳宗教に取り入れることで、独自の修験道(しゅげんどう)を確立したとされているのです。

その後「役小角(えんのおづぬ)」は、多くの山を開いたとされていて、その一つが「吉野金峯山(よしのきんぷせん)」だということ。

しかし秩序を乱したとして、699年に文武天皇(もんむてんのう)によって、伊豆島に流罪となって流されたとされています。

吉野花会式(よしのはなえしき)が行われるのは、金峯山寺(きんぷせんじ)

「吉野花会式(よしのはなえしき)」は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山寺(きんぷせんじ)で行われます。

奴行列は竹林院を出発して、金峯山寺(きんぷせんじ)の蔵王堂まで練り歩くのです。

出発地点の竹林院というのは、聖徳太子が創建したといわれている宿坊のこと。

庭園は「群芳園(ぐんぽうえん)」と呼ばれ、あの千利休が作庭したといわれ、改修を細川幽斎が手掛けたとされている、大和三庭園の一つにもなっている、格式高いところです。

宿坊というのは、寺院や神社などで、僧侶・講(こう)・参拝者のために建てられた宿泊施設のことをいいます。

もともとは寺院や神社に関係する人や、参拝者の人たち専用の宿泊施設でしたが、現在まで残っていて運営されている宿坊は、一般の観光客が宿泊出来ることもあり、そのサービスも充実してきているといえるのです。

一般の宿泊施設とは、雰囲気も違いますし、僧侶たちの行う朝のお勤めが見られたりなど、宿坊だからこそ体験できることもありますので、一度は宿泊してみる価値アリだといえます。

滞在中は歴史を身近に感じることが出来る、貴重な体験となるのです。

「吉野花会式(よしのはなえしき)」は、そんな竹林院から、大名行列が出発することから始まるのです。

吉野花会式(よしのはなえしき)は毎年4月10日から12日にかけて行われる

「吉野花会式(よしのはなえしき)」は毎年、吉野山の桜が満開になり、見ごろを迎える4月10日から12日にかけて行われる行事なのです。

金峯山寺(きんぷせんじ)の神事で、一番大きな行事だともいえる、この「吉野花会式(よしのはなえしき)」ですが、4月11日と12日の両日ともに、大名行列・花供懺法会(はなくさんぽうえ)・採灯大護摩供が行われ、4月10日には、花供千本搗き・女人採灯護摩供が行われます。

メインとなるのは、これらの行事ですが、3月の下旬から「吉野花会式(よしのはなえしき)」に先駆けて、桜まつりや、夜桜ライトアップ、蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)の特別御開帳、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)でのお田植え祭など、金峯山寺(きんぷせんじ)ではさまざまな行事が行われるのです。

「吉野花会式(よしのはなえしき)」は御神木が満開になったことを御本尊に報告・お供えする神事

「吉野花会式(よしのはなえしき)」は、蔵王権現(ざおうごんげん)の御神木である桜が満開になったことを、御本尊にご報告・お供えするものです。

メインとなる前日、4月10日の13時から行われる、伊勢音頭に合わせて大勢の人で臼(うす)に入れたお米を搗くという「千本搗き」から始まります。

同日14時からは、女性行者による「女人採灯大護摩供」が行われるのですが、女性行者による「採灯大護摩供」は、ここ金峯山寺(きんぷせんじ)でしか見ることが出来ないもの。

ほかの神社仏閣にはない、金峯山寺(きんぷせんじ)独特のものだといえます。

4月11日と12日両日は、「吉野花会式(よしのはなえしき)」のメインとなる日。

両日とも朝10時に、大名行列が竹林院を出発します。

この大名行列は、十万石の格式を持つ奴行列を先頭にして、その後に僧侶・稚児・山伏・信徒の順に並んでいるのです。

竹林院から蔵王堂までを練り歩く大名行列の姿は、なかなか見ることが出来ないもので、昔の大名行列さながらの姿を、多くの人が楽しみにしているものでもあります。

大名行列が蔵王堂に到着した後は、「花供懺法会(はなくさんぽうえ)」の法要と「採灯大護摩供」が行われるのです。

13時からは、10日の「千本搗き」の時に搗いたお餅を撒く「御供撒き」が行われます。

以上が「吉野花会式(よしのはなえしき)」の3日間の流れになるのです。

参拝も御供撒きも、参加は自由となっていますし、大名行列のお稚児さんや、山伏としての子どもの参加も募集されていますので、多くの人が参加できる「吉野花会式(よしのはなえしき)」だといえます。

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吉野花会式(花供懺法会)にまつわるイベントと行事

シロヤマザクラを中心とした3万本の桜が咲きほこるお祭り

「吉野花会式(よしのはなえしき)」にまつわるイベントの一つに、「桜まつり」があります。

3月の下旬から行われている、桜まつりでは、夜桜のライトアップが行われているのです。

吉野山には、約3万本の桜が、谷や尾根に群生していて、その中には多くの桜の名所があります。

桜の種類は、「シロヤマザクラ」が中心となっていて、約200種類の桜が3万本、3月の下旬から徐々に咲き始めるのです。

ふもとの方から咲き始め、徐々に上へと咲きあがっていきます。

咲き始めるのは3月の下旬からですが、一番の見ごろは4月の上旬から下旬にかけて、とても美しい景色が長い時間、楽しめるのです。

ライトアップされた桜は、日中とは違った雰囲気を見せてくれますので、昼と夜で違った顔も楽しめるといえます。

シロヤマザクラは、4か所にまとまって咲いていて、それぞれのエリアは「下千本(しもせんぼん)」「中千本(なかせんぼん)」「上千本(かみせんぼん)」「奥千本(おくせんぼん)」と呼ばれているのです。

この「千本」というのは、「一目に千本の桜が咲いているように見える豪華さがある」という意味からきています。

「千本桜」や「一目千本」とも呼ばれているのです。

いつもは見ることが出来ない御本尊「蔵王権現(ざおうごんげん)」を拝むことができる蔵王堂の御開帳

「吉野花会式(よしのはなえしき)」に先立って、3月の下旬から行われるのは、金峯山寺(きんぷせんじ)、蔵王堂の御開帳。

修験道(しゅげんどう)の総本山にある本堂・蔵王堂は、東大寺大仏殿に次ぐ、日本の木造大建築とされていて、蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)3体をはじめとする、多くの尊像が祀られています。

蔵王堂は役行者によって創建されたとされていますが、過去に何度か焼失と再建が、繰り返されているのです。

1348年(正平3年)には、高師直(こうのもろなお)が攻めてきたことによって焼失したとされている記録があります。

また1586年(天正14年)にも焼失したとの記録が残っているのです。

その後1592年(天正20年)ごろに再建され、現在の建物はこの時のもの。

蔵王堂内に祀られている蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)は、普段は扉が閉まっていて、見ることが出来ません。

しかし一番大きい行事だといえる「吉野花会式(よしのはなえしき)」の前には、蔵王堂は開帳され、その姿を拝むことが出来るのです。

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)の「五穀豊穣」を祈願するお田植え祭

毎年4月3日に行われるのは、「お田植え祭」。

「五穀豊穣」を祈願して行われるこの神事は、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)の境内で行われます。

吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)には、水を司る「天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)」が祀られていて、子授けの神・安産の神・子守明神として信仰されているのです。

現存している社殿は、1605年(慶長10年)に、豊臣秀吉によって再建されたとされています。

豊臣秀吉が再建に至った経緯としては、豊臣秀吉が吉野山をおとずれ、豊臣秀頼を授かったから。

この「お田植え祭」では、白衣を着て翁のお面をつけた「田男」に扮した男と、牛のお面をつけて「牛」に扮した男が拝殿で、田んぼを耕し穀物を収穫するまでの、一年の農仕事を舞い踊るのです。

手には、鍬・鋤・馬鍬・柄振・籠など日頃の農作業に必要な道具を持ち、祝いの祝詞(のりと)を唱えながら、舞いを踊り、奉納をします。

神事自体は厳かな雰囲気に包まれてはいますが、この舞には時折ユーモア的な要素も含まれているのです。

神事の後には、田男に扮した男が、拝殿から「御供撒き」をします。

4月10日に行われる「千本搗き」は大勢で行うお餅つき

「吉野花会式(よしのはなえしき)」のメインとなる前日の、4月10日の13時から行われている「千本搗き」。

臼(うす)に入れたお米を、何本もの長い棒状の杵(きね)を使って、大勢の人で搗く、お餅つきのようなものです。

平安時代から伝わるとされているこの「千本搗き」は、その名の通り、たくさんの杵(きね)でお餅を搗くことが由来となっています。

「千本搗き」には、誰でも参加することができ、搗いたお餅が無料で振る舞われているのです。

またここで搗いたお餅は、11日・12日に行われるメインの神事である「花供懺法会(はなくさんぽうえ)」でお供え物とされるとともに、13時頃からの「御供撒き」の時には参拝者に撒かれます。

「千本搗き」で搗いたお餅を食べると、その年は「無病息災」のご利益があるとされているのです。

「千本搗き」も「御供撒き」も、誰でも参加可能なので、毎年多くの人が参加していますが、「無病息災」のご利益をいただくためにも、参加してみるといいといえます。

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吉野花会式と吉野修業道とは?1000年の歴史を知る

吉野修業道(よしのしゅげんどう)は過酷な修行

吉野山の桜が御神木となった始まりである、「蔵王権現(ざおうごんげん)」を刻んだ「役小角(えんのおづぬ)」は、「修験道(しゅげんどう)」の開祖でした。

「修験道(しゅげんどう)」というのは山岳宗教であり、日本独自の宗教だといえます。

簡単に言えば、入山して難行・苦行をすることを修行とし、森羅万象が神仏だと考え、人のなかに眠っている本能を目覚めさせることで、霊的な力を得ようとすること。

「役小角(えんのおづぬ)」は、吉野山で陰陽道神仙術と密教を取り入れることで、独自の修験道(しゅげんどう)を確立したとされていて、吉野の地が修験道(しゅげんどう)の発祥の地だとされています。

修験道(しゅげんどう)には「十界の修業を成し遂げるべき」だとされているのです。

この十界というのは、先達の命に従って、雑役に服し、追い立てられるという「地獄界」、わずかな食糧でも、歩き続けて飢えの苦しみを味わうという「餓鬼界」、空腹に耐えながら重たい荷物を運ぶなど、馬や牛のように扱われたとしても歩き続けるという「畜生界」、自らの奥にある醜い争いの心を見せつけられるという「修羅界」、断崖絶壁に身を突き出されて過去に犯した悪行を告白・懺悔するという「人間界」、神仏を敬い礼拝をするという「天界」、山の中で聞こえるあらゆる音、鳥のさえずりや水音を聞き、不屈不撓の心を養うという「声聞界」、山の姿や水流などの自然を見て心の晴明を誓うという「縁覚界」、行徳を積んで、社会や人々を救うことに貢献するという「菩薩界」、即身成仏の境地に至るという「仏界」のこと。

また吉野から熊野までの大峰山脈伝いに120キロの道にある、75か所の「靡き(なびき)」と呼ばれる霊場を回りながら、祈り、歩き続けるという修行を「大峰奥駈修行(おおみねおくがけしゅぎょう)」といい、修験道(しゅげんどう)において、最極の修業だとされています。

このようなことから、修験道(しゅげんどう)は並大抵の修業ではない、ということがわかるのです。

しかし現在でも「修験道(しゅげんどう)」の修業を行うために入山する人は、多くいます。

金峯寺の歴史

金峰山(きんぷさん)は、山梨県と長野県の県境に位置していて、標高は2599メートル。

奥秩父連峰の名峰で、「甲州御岳山」とも呼ばれています。

山頂には、高さが15メートルにもなる「五丈岩」というものがあり、本宮として金峰山信仰のシンボルとなっているのです。

この「五丈岩」には昔から伝わる古い言い伝えがあり、もともとは「御像岩」と呼ばれていました。

「大己貴命(おおなむちのみこと)」とともに国造りを行った「小彦名命(すくなびこなのみこと)」が鎮座するとされています。

また東征の際に金峰山に登った「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が、金峰山に霊力を感じ、御像岩のもとに社殿を建てたとされているのです。

「五丈岩」の山頂から湧き出ている「甲斐派美(かいはみ)」と呼ばれる湧き水は、甲斐・武蔵・信濃の三国の水源となっていることから、金峰山(きんぷさん)に祀られている神様たちは、耕作の守護神として崇拝されるようになったとされています。

また御像岩の周辺からは、水信仰に関わりの深い士馬や、水晶などが多く発見されているのです。

御像岩からの出土品は、山梨県立博物館で展示されていますので、足を運んでみてください。

そんな金峰山(きんぷさん)の山頂にあたる山上ヶ岳で、一千日間にわたって修行を行い、金剛蔵王権現を感得した「役小角(えんのおづぬ)」によって、修験道(しゅげんどう)の御本尊とされ、吉野山にお祀りしたことが、金峰山寺(きんぷせんじ)の始まりだといわれています。

金峰山寺(きんぷさんじ)は、修験道(しゅげんどう)の発祥となった地であり、根本道場として栄えていたのですが、明治時代初期の神仏離廃毀釈の大法難による廃寺の危機がありました。

しかし多くの人の信仰があったことが支えとなり、仏寺に復興したのです。

現在では修験道(しゅげんどう)の総本山として、全国から修験者・山伏が集まる中心寺院という存在になっています。

世界遺産となっている吉野・大峯

「修験道(しゅげんどう)」の聖地である吉野山ですが、吉野・大峯は、世界遺産として登録されています。

大峰山脈の青根ヶ峯までのことを「吉野」、それより南を「大峯」と呼んでいて、修験道(しゅげんどう)の霊場と考えられてきたのです。

現在でも多くの人が、修行に打ち込んでいる姿を見ることが出来ます。

吉野山を含んだ「紀伊山地の霊場と参詣道」が2004年7月に、ユネスコ世界遺産に認定されました。

吉野山全体が、世界遺産として登録されていますので、吉野山にある「金峯山寺(きんぷせんじ)」「吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)」「吉水神社(よしみずじんじゃ)」などの建造物も、世界遺産になっているのです。

「吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)」は、「天乃水分神(あまのみくまりのかみ)」という水の神を祀っていて、子授け・安産の神・子守明神としての信仰があります。

豊臣秀吉が、豊臣秀頼を授かったのも、吉野山を訪れたあとだといわれていますし、本居宣長の父も、「吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)」で祈願したことから、本居宣長を授かったとされているのです。

「吉水神社(よしみずじんじゃ)」は、もともとは宿坊だったところ。

「吉水院」と呼ばれていましたが、明治時代初期の神仏離廃毀釈によって「吉水神社(よしみずじんじゃ)」に名前を変えました。

豊臣秀吉が5000人もの人を引き連れて花見を開いた、花見の本陣だったといわれる場所でもあり、後醍醐天皇の行宮で源義経が身を隠した場所としても有名です。

吉野花会式に欠かせない蔵王堂って?金峯寺の境内と文化財で歴史を知る

蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)は日本独自の仏様

「修験道(しゅげんどう)」の本尊である「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」。

蔵王堂の扉の中に祀られているのですが、その姿を見ることが出来るのは、「吉野花会式(よしのはなえしき)」が行われる前に先駆けて3月下旬からの一定期間です。

ほかにも特別に御開帳されることもありますが、いつもは扉が閉められていて、なかなか見ることはできない、貴重なお姿だといえます。

「仏」といえばインドや中国にも存在している共通の仏が多いものですが、「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」は、ほかには存在していない、日本独自の仏様です。

3体の「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」は、身体の色は青く染まり、赤い髪を逆立たせて、紅蓮の炎を背負っています。

鼻袋まで伸びた牙に、金色の眼を持ち、激しい怒りと憤りの形相をしているのです。

これは1300年前に役行者の前に現れた「釈迦如来(しゃかにょらい)」「観音菩薩(かんのんぼさつ)」「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の三仏が、初めに現れた優しい姿を捨てて、再度現れた時の姿とされています。

見た目には恐ろしい姿といえますが、その身体の青色が「慈悲」と「寛容」を表しているといわれ、怒りの中にもすべてを許す「恕(じょ)」の心を表した姿だとされているのです。

真ん中に祀られている「中尊」は7.28メートル、向かって右側に祀られているのが6.15メートル、左側に祀られているのが5.92メートルという、大きさ。

今にも動き出しそうなその姿は、迫力があります。

「権現」という言葉には、「仮に現れる」という意味がありますので、「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」も、仏様の仮の姿ということです。

「釈迦如来(しゃかにょらい)」は「過去」を表し、「観音菩薩(かんのんぼさつ)」は「現在」、「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」は「未来」を表すというのはよく知られている話でもあります。

「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」も、私たちの「過去」「現在」「未来」の全てをお守りしてくれているのです。

国宝でもある仁王門と金剛力士像(仁王像)

蔵王堂の北側の正門にあたる「仁王門」。

金峯山寺(きんぷせんじ)に現存している最古の建造物です。

「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に指定されているとともに、門内に安置してある「金剛力士像(仁王像)」は、奈良の東大寺の金剛力士像(仁王像)に次ぐ大きさで、国の重要指定文化財に指定されています。

仁王門は高さが20.3メートルになる、二階建ての二重門になっていて、北を正面にしているのです。

蔵王堂が南を正面にしていて、仁王門が来たを正面にしている理由は、熊野から吉野へ向かう巡礼者と、吉野から熊野へ向かう巡礼者の双方を迎えるためだとされています。

国宝の金剛力士像(仁王像)は高さが5.1メートルで、南都大仏師康成の作。

現在は70年ぶりの改修工事中とあって、2028年の完成まで、仁王門も金剛力士像(仁王像)も見ることが出来ません。

仁王門の改修には、可能な限り瓦や木材が再利用され、なるべく当時のものをそのまま使って行われます。

鐘楼

蔵王堂の西側に建っている「鐘楼」。

ハッキリとした創建の時期はわかっていませんが、「1264年(文永元年)に落雷によって焼失した」という記録が残っていますので、創建はそれよりも前だとされています。

昔は時間や法要を告げるために、鳴らしていたとされている鐘ですが、僧侶に修行の身であることを自覚させるための一つの仕事として与えていたとも、されているのです。

大晦日には、除夜の鐘として撞かれるもので、大晦日に参拝に訪れた参拝客は、誰でも撞くことが出来るもの。

ちなみに除夜の鐘を撞いた後には、午前0時から、福酒の鏡割りが行われ、福酒がふるまわれ、蔵王堂での新春採灯護摩供が行われます。

釈迦如来像は指定文化財

本堂・蔵王堂に安置されている、3体の「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」の中尊が「釈迦如来(しゃかにょらい)」だとされています。

「釈迦如来(しゃかにょらい)」とは、紀元前6世紀から5世紀ごろにインドで生まれ、仏教の開祖だとされていて、「観音菩薩(かんのんぼさつ)」と「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」とともに、「過去」「現在」「未来」を表しているとされているのです。

「釈迦如来(しゃかにょらい)」が表しているのは「過去」とされています。

「釈迦如来(しゃかにょらい)」が祀られているのは、蔵王堂だけではなく、蔵王堂の西の方に位置している「南朝妙法殿」にも祀られているのです。

「南朝妙法殿」は、南朝の四帝とその忠臣たちが祀られていて、1958年(昭和33年)に、第二次世界大戦で亡くなった戦死者・有縁無縁(うえんむえん)の霊を合祀するために三重塔として建てられました。

もともと「南朝妙法殿」が建てられた場所には、後醍醐天皇が行在所としていた「実城寺」があった場所。

そのため「南朝妙法殿」には「実城寺」の本尊だったとされている、「木造釈迦如来坐像」が安置されているのです。

この「木造釈迦如来坐像」は、奈良県指定文化財にもなっています。

重要文化財の十一面観音像は忠実に造られた檀像(だんぞう)

蔵王堂の東側に建つ「観音堂」には、「十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)」が祀られています。

「観音堂」は、南北朝時代・室町時代の頃に創建されたとされていて、祀られている「十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)」も南北朝時代の作だとされているのです。

「十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)」の脇には「阿難・迦葉尊者立像(あなん・かしょうそんじゃりゅうぞう)」が安置されていますが、もともとは廃寺となった世尊寺(せそんじ)に安置されていたとされています。

「十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)」は、重要文化財に指定されていて、芳香を発する檀木(だんぼく)が使われている、「檀像(だんぞう)」と呼ばれる仏像です。

起源はインドにあり、経典に記されている規定「ビャクダンを用いて、一尺三寸の大きさに造る」に忠実に造られたもの。

全方向を見守り、苦しんでいる人をすぐに見つけることが出来るよう、頭の上に11の顔があることから「十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう)」といわれています。
 

11の顔は、前の3面が「菩薩面」、左側の3面が「瞋怒面」、右側3面は「狗牙上出面(くげじゅうしゅつめん)」、後ろの1面を「大笑面」、頂上の1面を「仏面」となっているのです。

それぞれの顔が表しているように、人々のことを見守りつつ、時には怒り、時には励まし、時には宥めてくれるとされています。

「十種勝利(現世利益)」と「四種果報(死後成仏)」というさまざまなご利益があり、人気の観音様です。

人々からの信仰が強くなったのは、奈良時代からといわれています。

木造蔵王権現立像(もくぞうざおうごんげんりつぞう)は重要文化財

金峯山寺(きんぷせんじ)の「木造蔵王権現立像(もくぞうざおうごんげんりつぞう)」は、重要文化財に指定されています。

金色の目を見開いて、赤い髪を逆立てており、牙は鼻袋まで伸びていて、青い身体をしているその顔は、憤りや怒りを表した形相をしています。

左足は、岩を踏んでいて、右足は大きく跳ね上げている姿。

衣は強い風を正面から受けているように吹き上げられていて、紅蓮の炎を背負っています。

この「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」の姿は、「役小角(えんのおづぬ)」が修行の際に人々を救う仏の出現を祈って現れた蔵王権現の姿。

初めは「釈迦如来(しゃかにょらい)」次に「観音菩薩(かんのんぼさつ)」最後に「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」が現れましたが、もっと強い仏を望んだ地、雷鳴が轟き、大地が揺れ、岩を割って現れたのが、蔵王権現だったのです。

その時の姿が、「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」になっているということ。

この「木造蔵王権現像(もくぞうざおうごんげんりつぞう)」は秘仏として、特別な時にしか姿を見ることが出来ません。

しかし金峯山寺(きんぷせんじ)には、本堂の外陣東北隅に安置されている、459センチの別の「木造蔵王権現像(もくぞうざおうごんげんぞう)」があります。

もともとは吉野山の奥の院と呼ばれていた「安禅寺」の本尊で熱田とされているのです。

鎌倉時代の後半に制作されたもので、秘仏の「蔵王権現(ざおうごんげん)」よりも古いとされています。

どちらも重要文化財に指定されているものです。

吉野花会式で見たい名桜をエリア別に紹介

上千本(かみせんぼん)エリア

「吉野花会式(よしのはなえしき)」の一番の見どころは、やっぱり桜の花。

シロヤマザクラを中心とした、約200種類、3万本ともいわれる、谷から尾根へと咲き広がる桜は圧巻です。

大まかに4か所にエリアが分かれていて、それぞれ「下千本(しもせんぼん)」「中千本(なかせんぼん)」「上千本(かみせんぼん)」「奥千本(おくせんぼん)」と呼ばれています。

「一目見ただけで、千本もの桜が咲いているように見える豪華さがある」という意味から「千本桜」「一目千本」といわれることからこの呼び名がついたのです。

「上千本(かみせんぼん)」エリアでは、見ごろは4月9日ごろ訪れます。

標高が370メートルから600メートルと、坂道が多くなってくるエリアですが、「上千本(かみせんぼん)」エリアから見える桜は、「中千本(なかせんぼん)」エリア「下千本(しもせんぼん)」エリアの桜も望めて眺めは抜群です。

なかでも標高600メートルの位置にある「花矢倉展望台」から見る桜景色は、特におすすめ。

夜のライトアップされた景色は、幻想的でまた違った雰囲気に包まれます。

もともとは宿坊だったといわれ、千利休が作庭、改修を細川幽斎が手掛けた、大和三大庭園の一つの「群芳園」のある竹林院や、修験道(しゅげんどう)にゆかりがあるとされている桜本坊も、見どころの一つです。

中千本(なかせんぼん)エリア

「中千本(なかせんぼん)」エリアでは、見ごろは4月7日ごろ訪れます。

吉野山の中腹に当たる「中千本(なかせんぼん)」エリアは、標高が350メートルから370メートルといったところです。

「中千本(なかせんぼん)」エリアと「上千本(かみせんぼん)」エリアの桜を見渡すことが出来ますが、ここでのおすすめは世界遺産でもある「吉水神社」から見る桜景色。

「吉水神社」の階段の下からは、蔵王堂と桜を一緒に観ることが出来るポイントがあります。

境内からは「一目千本」が見られて、その美しさは息をのむほど。

太平記にゆかりのある「如意輪寺」周辺の桜景色も、忘れずに見ておきたいところ。

庭園内は有料ですが、多宝塔があり、シダレザクラとの共演はとても美しいものです。

「吉水神社」は、豊臣秀吉が多くの人を連れてお花見をしていたことで有名なので、同じ景色を見てみるのも、また感慨深さがあります。

下千本(しもせんぼん)エリア

「下千本(しもせんぼん)」エリアでは、見ごろは4月1日ごろ訪れます。

吉野山の入り口に位置している「下千本(しもせんぼん)」エリアは、標高は230メートルから350メートル。

下千本展望所から見る桜景色は、とてもキレイです。

早朝の雨上がりの桜は、幻想的なものがあります。

遠目に蔵王堂を望むことができ、蔵王堂の下に広がる桜景色は雄大です。

大橋と桜の共演も見ておきたいポイントの一つ。

朱色に塗られた大橋と、桜の淡いピンクが絵になりますので、ぜひ写真に収めておいてください。

そのほかにも三重塔と桜、特に夕陽の中で見るものがおすすめです。

夕陽のなかで見るといえば、嵐山のシダレザクラも夕陽と一緒に見ておきたいもの。

嵐山周辺には、シダレザクラが多く、早めの時期からキレイなシダレザクラを見ることが出来るのです。

吉野山の中でも、桜の開花が早めに訪れますので、早ければ3月の下旬からキレイな桜景色を見ることができます。

占い師 RINのワンポイントアドバイス「吉野花会式で1000年の日本の歴史を感じて」

RIN
「吉野花会式(よしのはなえしき)」は、歴史の古い行事の一つです。

ユネスコ世界遺産や国宝に指定されている、歴史を感じるものがたくさんあります。

蔵王堂の御開帳は、いつも行われているものではありませんので、重要文化財にもなっている「蔵王権現像(ざおうごんげんぞう)」を拝めるのも、「吉野花会式(よしのはなえしき)」の時期だからできること。

桜も見る場所によって、時間帯によって、さまざまな雰囲気を感じることが出来る桜景色も素晴らしいものです。

昔から変わらない景色に、想いを馳せて、日本の歴史を感じてほしい「吉野花会式(よしのはなえしき)」だといえます。

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