毎年2月11日に訪れる国民の祝日、「建国記念の日」ってどんな日なのかという疑問に、きちんと答えることが出来る人は少ないものです。
ここでは「建国記念の日」が出来るまでの歴史的背景や、建国記念日とはどう違うのか、過ごし方はあるのかなど、「建国記念の日」について解説を詳しくしていきます。
また諸外国の建国記念日はいつなのか、その歴史についても、合わせてご紹介。
詳しく知ってみると、実は知らないことが多いといえる「建国記念の日」です。
自分が生まれ育ってきた、日本について詳しく知っていきましょう。
目次
2月11日が建国記念の日になった理由
建国記念日とは?
「建国記念日」というものは、世界中の国々で、それぞれが定めている「自国の建国を祝う祝日」のことです。
それぞれの国によって、「建国」とは何をもって基準とするのかは各々違いますが、その多くは、独立や革命・憲法が出来た時・政府が作られた時が基準となっています。
なかには、独立運動の中心人物だった人の誕生日・政治や国が大きく変化した時を基準としている国があったり、そもそも「建国記念日」を持たず、別の形でお祝いをする日を設けている国もあるのです。
日本でも他国の建国記念日で多くの人が知っているのは、フランス革命が始まった日が改革記念日とされている7月14日や、ニュースでも話題になっていたドイツ統一の日である10月3日、盛大なお祝いで知られるアメリカの独立記念日、俗にいうインディペンデンス・デイの7月4日といったところ。
「建国記念日」は世界中の国にとっても、その国の歴史や多くの人の想いが詰まっていて、毎年盛大にお祝いをする日になっています。
紀元前660年の神武天皇の即位を祝う「紀元節」
「日本書紀」の記述によると「神武天皇」は、日本の初代天皇とされています。
日向で生まれ、宇佐・安芸国・吉備国・難波国・河内国・紀伊国を経て、橿原の地にたどり着いたのです。
その後「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)」を正妃として迎えた翌年に天皇に即位しました。
神武天皇が天皇として即位されたといわれているのは、紀元前660年2月11日のこと。
天皇としての在位期間は76年間で、127歳で亡くなったとされています。
即位の礼を行ったのは奈良県にある橿原神宮(かしはらじんぐう)といわれていて、その北側には神武天皇陵があります。
また神武天皇が即位したことに基づいて2月11日を、「紀元節(きげんせつ)」という祝日として制定され祝ってきましたが、1948年(昭和23年)に廃止されました。
明治22年「大日本帝国憲法」の制定
1889年(明治22年)になると、明治天皇によって「大日本憲法発布詔勅」が出され、「大日本帝国憲法」が発布されました。
この時日本は、東アジアで初めての立憲君主国家となったのです。
大日本帝国憲法の発布とともに、皇室典範も定められることとなり、議院法・貴族院令・衆議院議員選挙法・会計法なども同時に定められました。
大日本帝国憲法は、その後第1回衆議院議員選挙の実施と、第1回帝国議会の開会を経て、1890年(明治23年)11月29日に施行されたのです。
1946年(昭和21年)11月3日に公布・1947年(昭和22年)5月3日に施行された現行の「日本国憲法」が制定されるまで、日本の最高法規とされていました。
1948年GHQによる紀元節の廃止
日本という国の建国を祝っていた日である2月11日の「紀元節」ですが、天皇を神格化し、神道と結びつきが強い祝日を嫌った、ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官の率いるGHQ(連合国最高司令官総司令部)によって、第二次世界大戦後の1948年、「紀元節」という日本の祝日は廃止されることが決まりました。
第二次世界大戦に負けた日本は、戦勝国によってさまざまな改革や制限を、日本の民主化として迫られてきたのです。
特に神道と結びつきの深い、国民の祝日をそのままにしておくことは、日本を民主化しようとしていたダグラス・マッカーサーにとって危険因子でしかなかったということ。
「紀元節を残すと、天皇を中心に日本人の団結力を高めてしまい、軍事大国になってしまうのではないか」と考えたのです。
国民の声によって1966年「建国記念の日」制定
「紀元節」が廃止された後も、国民の間では「紀元節」の復活を求める声や動きは高まる一方でした。
日本が独立をした後も、9回に渡って議案提出と廃案を繰り返すことになったのです。
なぜこんなにも時間がかかってしまったのかというと、「紀元節」の復活を求める声があるとともに、復活に異議を唱える声もあり、野党からの反発があったこと。
そしてもう一つ大きかったのが、もともと「紀元節」の始まりとされた神武天皇の存在です。
日本の歴史学において、神武天皇の存在の確証となるものがないことから、「正確な起源が不明のままでは建国記念日を定めることが出来ない」とする、学者からの意見が多く挙がっていました。
このような議論が長期にわたり、決着がつかなかったことが、9回もの議案提出と廃案を繰り返した背景にあったのです。
しかし1966年(昭和41年)に、2月11日が「建国記念の日」として改めて制定され、祝日になりました。
「建国記念の日」にはなぜ”の”がついているの?
紀元節から記念の日へ
古来から日本に存在していた「紀元節」というものは、日本の初代天皇として神武天皇が即位した日が、日本が建国された日だとされていたことで、祝日に制定され、お祝いされてきました。
しかし第二次世界大戦後、ダグラス・マッカーサー率いるGHQによって「紀元節」は廃止されることになってしまったのです。
これは「紀元節を認めてしまうことで、天皇を中心に団結して、再び脅威となってしまうかもしれない」ということを懸念して、廃止を決めたのでした。
その後国民の80パーセント以上が「紀元節」の復活を求めているということがわかり、政府も動き出すことになるのです。
国会で何度も議案の提出と議論、廃案を重ね、さまざまな意見を聞きながら、「紀元節」としてではなく、「建国記念の日」として1966年(昭和41年)に議案が承認されることになりました。
こうして「紀元節」から「建国記念の日」として変わっていったのです。
変更された理由
「建国記念の日」として決定となるまでは、さまざまな意見があり、紆余曲折を経ました。
古来あった「紀元節」の復活ではなく、新しく「建国記念の日」という名前へと変更された最も大きい理由だったのが、「2月11日が日本の起源だという根拠がない」こと。
「紀元節」のもととなっていた根拠は、日本の初代天皇である神武天皇が即位した日。
第二次世界大戦後に「紀元節」が廃止されて、復活させようとした際に、多くの歴史学者から「神武天皇が存在していたという確証が得られない」「歴史学的に正確な起源がわからなければ、建国記念として定めることが出来ない」という意見が出てきたのです。
そんな議論を重ねているうちに、「建国記念」ではなく「建国記念の日」ということにすれば、起源の日にちがハッキリとしていなくても、「日本が始まったことをお祝いする日」とすればいいのではないか、という意見でまとまることになりました。
このような経緯があって、新しく「建国記念の日」に変更されたということなのです。
「建国記念の日」が出来るまで、時間がかかった理由
「紀元節」の復活へと政府が動き出して、「建国記念の日」が制定されるまで、実に10年という月日を要しました。
ではなぜこんなに時間がかかってしまったのか、ということなのですが、たくさんの人のいろいろな意見があり、まとまらなかったことが最大の原因。
「神武天皇の存在していた確証が得られない」「日本の正確な起源がわからないと決められない」といった歴史的な議論に始まり、「紀元節」の復活を求める声は高かったものの、異議を唱える人がいなかったわけではなく、慎重にならざるを得なかったところもあります。
歴史的な議論では、証拠となるものが出てきていないので、結論はなかなか出ません。
確かに神話の世界でいえば、神武天皇の存在は「日本書紀」や「古事記」などの文献にも記してありますが、昭和の時代になって、神話の話を日本の歴史の始まりだと断言していいものか、といえばそうはいかないものです。
そこで「建国記念の日」と、建国をお祝いする日とする案で決定が出来るまで、時間がかかってしまったということ。
たくさんの人たちが知恵を絞ってひねり出した、苦肉の策だったのです。
大日本帝国憲法と日本国憲法
「大日本帝国憲法」は、「日本国憲法」が交付・施行されるまで日本の最高法規とされてきたものですが、1945年にポツダム宣言を受諾したことによって、これまでの「大日本国憲法」の法改正を求められることになりました。
「大日本帝国憲法」は主権者は天皇にあり、何事も最終的に決めるのは天皇だとされていましたが、「日本国憲法」では、国民に変わったのです。
ほかにも「日本国憲法」では「戦争放棄」や「生まれながらにして持つ人権の保障」など「大日本帝国憲法」にはなかったものが追加され、現行の憲法となっています。
「日本国憲法」の内容は、ポツダム宣言の受諾によって要求された「日本軍の無条件降伏」「基本的人権の尊重」「国民の自由意思による政治形態の決定」などといったことが盛り込まれ、GHQ監督の下で「日本国憲法草案」が作られ、さまざまな道のりを経て出来上がった新憲法案が、公布されたのです。
この「日本国憲法」が公布された11月3日は「文化の日」、施行された5月3日は「憲法記念日」とされ、国民の祝日となっています。
「記念日」と「記念の日」の違いとは
2月11日は、「建国記念日」ではなく「建国記念の日」です。
では「記念日」と「記念の日」にはどのような違いがあるかというと、「記念日」は歴史的事実として確定された日付があることを記念する日で、「記念の日」は、歴史的に確定されている日にちはないけれども、その出来事を記念する日だということになります。
日本は歴史学的には、ハッキリとした建国の日にちが分かっていません。
そのため「建国記念日」ではなく「建国記念の日」とされているということなのです。
多くの人が「建国記念日」だと勘違いをしているといえる2月11日ですが、実はちゃんとした日にちは不明のまま、今でも解明されていません。
「建国記念の日」の意味は、「建国をしのんで、国を愛する心を養う日」とされていますので、日にちはわからなくても、日本という国が出来たことをお祝いしましょう、という日とされているということなのです。
建国記念の日について詳しく知りたい!
カムヤマトイワビレコノミコトという神様
「日本書紀」や「古事記」に登場する「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワビレコノミコト)」は、日向の地で生まれ、育ったといわれています。
兄の「五瀬命(イツセ)」と一緒に、故郷である日向を離れ、東へと向かうのです。
筑紫国で1年・安芸国で7年・吉備国で8年を過ごした後、浪花国に入りますが、ここで兄の「五瀬命(イツセ)」は「登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)」の軍勢との戦いで矢に当たり、亡くなってしまいます。
その後、困難を乗り越えながらも、熊野・吉野を経て、現在の奈良県橿原へとたどり着いて、天皇に即位したのです。
大神主神の娘である「比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)」を皇后として迎え、「日子八井命(ヒコヤイ)」「神八井耳命(カムヤイミミ)」「神沼河耳命(カムヌナカワミミ)」の三柱の子を生んだとされています。
この「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワビレコノミコト)」は「神武天皇」のこと。
「古事記」に載っているこの話は、「神武東征」という神話の一つなのです。
初代天皇である「神武天皇」
「建国記念の日」が制定されるキッカケともなった人物であるのが「神武天皇」です。
「建国記念の日」の礎ともなった「紀元節」ですが、その始まりとなった初代天皇である「神武天皇」。
しかし「神武天皇」の存在については未だ謎のままで、神話の域を出ていません。
「日本書紀」や「古事記」には記載がありますが、本当に「神武天皇」が存在していたのかどうかを裏付けるものが何もないのです。
歴史学者の間でも、「神武天皇」の存在に関しては、議論が続いていて、実在したと考える人もいれば、神話の中の人物で、架空の人物だと考えている人もいます。
実在したと記録が残っている天皇は、507年に即位した第26代天皇の「継体天皇」からなので、初代天皇とされている「神武天皇」から25代天皇の「武烈天皇」までは、神話なのか実在したのかは分かっていないのです。
この先歴史的発見によって、「神武天皇」の存在がハッキリとわかる日が来るかもしれません。
今、日本は何歳?
歴史的事実に基づいて確定している日にちがないので、日本の建国の日はわかっていません。
しかし「日本書紀」や「古事記」に記載がある通り、「神武天皇」が実在の人物であったとして、その日を日本の始まりとして計算するならばの話。
今年は2021年で、「神武天皇」が即位されたのは、紀元前660年です。
ということは、2021+660=2681という計算になりますので、2021年の2月11日で、日本は2681歳になった、ということになります。
来年は2022+660=2682で、2682歳を迎えることになるのです。
私たちは「西暦」で数えたり、「元号」で数えたりするのが一般的なので、あまりなじみがないかもしれませんが、神社などで見かけることがある「皇紀」という年号の数え方があります。
「皇紀」というのは、「神武天皇」が即位された年を元年として数えていますので、今年は「皇紀2681年」となるのです。
愛国心を育てる日
「建国記念の日」とは、「建国をしのんで、国を愛する心を養う日」とされています。
これは言い換えれば「日本という国が建国されたことを喜び、愛国心を持ちましょう」ということです。
「愛国心」というのは、「自分の国を愛して、国の名誉・存続などのために行動しようとする心・祖国愛」というもの。
日本人は、世界的に見ると「愛国心」を持っている人が少ない傾向にあります。
「日本人であることに誇りを持っている」「日本という国に興味を持っている」と堂々と自信を持って口に出す人があまりいないことからも、見えてくること。
近年グローバルなコミュニケーションも増えてきて、「あなたの国はどんなところ?どんなところがスゴイの?」と聞かれても、答えられない日本人も多いものです。
日本という国についてもっと知ってみることも必要。
「建国記念の日」はそんな日にしたいものです。
GHQが建国記念日を廃止した理由
第二次世界大戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の、占領下にあった日本は、もともとあった祝日の見直しがされました。
現在の日本の祝日は、この時にGHQによって決められたものです。
ではGHQはなぜ、当時の日本の建国記念日であった「紀元節」を廃止したのか。
もともと日本にあった祝日は、皇室や伝統・歴史や文化に基づいたもので、それぞれに意味があったのです。
しかしGHQが、日本の祝日は神道と結びつきが深いことを嫌がり、「天皇を神格化することで、天皇の下日本人が団結してしまえば、また脅威となってしまうかもしれない」と懸念していたことが理由で、作り変えられてしまいました。
その時に、建国記念とされていた「紀元節」を残すことは、許されずに廃止となってしまったのです。
同じ理由でなくなってしまった祝日はたくさんあります。
諸外国の建国記念日とその歴史
アメリカの独立記念日
アメリカの独立記念日は、7月4日。
インディペンデンス・デイともいわれ、アメリカでは「Fourth of July」と呼ばれています。
この日はアメリカ全土でさまざまなイベントが開催され、夜になると盛大に花火が上がるなど、とても盛り上がりを見せる1日となるのです。
アメリカの独立記念日は、当時イギリスの植民地だったアメリカが、独立を宣言した日であり、アメリカのいわゆる建国記念日という日になります。
当時のアメリカは大英帝国の一部として発展していましたが、独立宣言をするに至ったのは、イギリスが植民地に課していた税制への不満が引き金となって、マサチューセッツ州でのイギリス軍との激しい対立が起こったことが始まりとされているのです。
1775年に始まったこの対立は、翌年1776年には、アメリカ東部の13州にまで広がり、これからのアメリカの方向性について話し合う会議が開かれるまでに発展していきました。
7月2日にフィラデルフィアで行われた会議で、イギリスから独立することを目指すと決議され、トーマスジェファーソンが中心となって作成した「アメリカ独立宣言」の文書が一般公開されたのが7月4日。
この「独立宣言書」は、アメリカが掲げている「自由と平等の国」の理想を明文化したものでした。
フィラデルフィアの「自由の鐘(リバティベル)」という「独立の鐘」として有名なので、知っている人も多いかもしれませんが、あの鐘が実際に鳴らされたのは、7月8日の、「独立宣言書」は公の場で初めて読み上げられた時だといわれています。
この出来事から、7月4日がアメリカの独立記念日とされ、現在に至るのです。
フランスの革命記念日
フランスの革命記念日は、7月14日。
フランスの各地でさまざまなイベントが行われますが、最も盛大なお祭りが行われるのは首都でもあるパリで、日本では「パリ祭」と呼ばれ、知られています。
この日は、空軍のアクロバット飛行・シャンゼリゼ通りで行われる軍事パレード・エリゼ宮殿ではお茶会が開かれ、夜はクラシック音楽のコンサートや花火大会など、とても盛大に祝われるのです。
凱旋門からコンコルド広場へと進んで行く軍事パレードは、2時間ほどかけて行進していきます。
あちこちでダンスパーティーも行われていて、この日は消防署もダンス会場になります。
フランス革命の始まりとなったのは、1789年のこと。
当時、絶対主義だった王政に対して怒りを抱いていたパリの市民が、バスティーユ監獄を襲撃して、占領した出来事がキッカケです。
6000人もの群衆が軍隊と対立し、国王の軍隊が敗北を期したことで、革命を起こしたとされ、この時に生まれたスローガンは「自由・平等・財産」。
その後さまざまな改革が成されていく中、身分の廃止であったり、国王の逃亡や、党派による対立、恐怖政治やクーデターといった数多くの出来事を経験し、1794年11月22日にフランス革命は幕を閉じることになったのです。
フランス革命記念日は、この出来事を記念していると思われていますが、実はもう一つ記念していることがあります。
1790年に制定された「連盟祭」です。
「連盟祭」とは、バスティーユ監獄の解体が1790年7月14日に完了したことから、「バスティーユ奪取1周年」を祝ったものですが、現地のフランスでもあまり知られていません。
ドイツの東西ドイツ統一の日
ドイツ統一の日は、10月3日。
ドイツでは毎年どこかの都市が順番に代表都市として選ばれ、式典が行われます。
式典の2日前からは、さまざまなイベントが用意されたりしてお祝いムードになるのです。
ドイツの統一が宣言されたのは、1990年とごく最近の出来事で、30年しか経っていません。
皆さんもニュースなどで見たことがあって記憶に新しい人も多いものだと思いますが、ベルリンの壁が壊されたり、ブランデンブルク門でのお祝いのシーン、実はドイツ統一の日ではないのです。
あれは1989年11月9日のことで、ドイツ統一宣言の約1年も前になります。
ベルリンの壁の崩壊の日がドイツ統一の日にならなかったことには、理由があるのです。
ドイツの歴史上、ベルリンの壁の崩壊があった11月9日は、「ヒトラーのミュンヘン一揆」や「ユダヤ人襲撃の日」で、通称「水晶の夜」と呼ばれる出来事があった日と同じだったことから、祝日とすることが問題となったことがその理由。
そもそもベルリンの壁というものは、ある日突然できたもので、もともと一つだったドイツが、ベルリンの壁によって二つに分けられてしまったのです。
1961年8月13日に作られ、1989年11月9日に壊されるまでの28年、ドイツは西と東に分けられてしまい、自由に行き来をすることが出来なくなってしまいました。
いきなり家族や友達との交流を断たれてしまった人たちも多くいて、無理に壁を越えようとして犠牲になった人はわかっているだけでも136人といわれています。
1989年10月から東ドイツでの反政府デモへの参加者が増えていったことが、ベルリンの壁の崩壊に繋がり、11月9日に東西ドイツの国境が開かれたのです。
イタリアの共和国記念日
イタリアの共和国記念日は、6月2日。
この日は多くの場所で、イタリアの国旗が掲げられ、ローマで式典とパレード・各地でイベントが行われます。
しかしこの時期は、夏休みの直前ともいえますので、バカンスに出かけてしまう人も多く、特に何もしないという人も多いものです。
1861年以降「イタリア王国」として君主制が続いていたイタリアですが、君主として君臨していた「サヴォイア家」。
第二次世界大戦でファシズム体制を招いたことで、王族「サヴォイア家」に対する批判・廃止を訴える声が大きくなってきたのです。
その結果1946年6月2日、王政廃止を国民に問う「国民投票」が行われることになりました。
国民投票の結果は「王政支持:45.7パーセント」「共和制支持:54.3パーセント」で、僅差ではありますが、共和制に軍配が上がったのです。
結果を受けて、「サヴォイア家」の一族は国外追放処分となって、イタリアの共和制への移行となりました。
翌年の1947年には「イタリア共和国憲法」も制定され、共和国の始まりとなった、国民投票の行われた日を「共和国記念日」とするようになったのです。
国外追放となった王族たちはポルトガルへ亡命しました。
当時の王族たちの子孫も含め、旧王族たちは、2002年から条件付きですがイタリアの国内に入ることが許されるようになったのです。
イギリスの建国記念日の代わりは、ゲオルギオスの日
建国記念日というものがない国もあり、イギリスはありません。
理由は、どこの国にも支配されていたことがないからというもの。
その代わり、「ゲオルギオスの日」というものがあり、宗教的なナショナルデーですが、祝日にはなっていません。
イギリスでは「聖ジョージの日(セントジョーンズデー)」といわれていて、4月23日。
毎年4月22日と23日は、ロンドンを中心にイベントが行われたりするなど、お祝いされますが、祝日ではないので、学校や企業・交通機関は通常通り営業しています。
国旗やセント・ジョージ・クロスの旗を飾ったり、パレードや音楽コンサート・サーカスに出かけたりするのです。
セント・ジョージは、ゲオルギオスとも呼ばれていますが、キリスト教の聖人の一人として、古代ローマの兵士でもあり、ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝の警備としても仕えていた人物。
皇帝によるキリスト教徒への大迫害ののち、殉死したといわれています。
セント・ジョージは実はイギリスと直接的な関わりのない聖人ですが、セント・ジョージを好んでいたとされるエドワード3世によって、1348年ごろにイングランドの守護聖人として定められたとされているのです。
そんなセント・ジョージで有名なのは、「ドラゴン退治の伝説」。
セント・ジョージが、旅をしていた時に出会った貧しい男に、シレーネという町でドラゴンに苦しめられているという話を聞きます。
街には水を汲むための井戸が一つしかないのですが、その井戸はドラゴンに支配されていて、水を汲むためには村の若い女性を毎日生贄にしなければいけない、次の生贄は王様の娘であるお姫様の番で、王様はドラゴンを倒した者には御姫様との結婚を許すと言っていると。
セント・ジョージは、ドラゴン退治に出かけますが、ドラゴンのウロコは硬くて、セント・ジョージの槍は砕け、落馬してしまいます。
魔法のオレンジツリーの力を借りて回復したセント・ジョージは、今度は剣でウロコのないドラゴンの翼の下を狙い、見事ドラゴンを倒したのです。
伝説の中でドラゴンの血が、赤いバラに変わったという場面があったことにちなんで、昔はセント・ジョージ・デーを祝う時に、胸に赤いバラを飾ったともいわれています。
カナダの独立記念日
カナダの独立記念日は、7月1日です。
この日はカナダ各地でパレードやバグパイプの演奏、コンサートやパフォーマンスイベント、屋台が並ぶなどしてとても賑やかな1日で、夜には花火が上がります。
またこの日の服装はカナダの国旗のカラーでもある、赤と白の服を着ている人が多く、お店でも赤と白の独立記念日用の服が、たくさん並ぶのです。
そのため街に出れば、どこでも周りは赤と白に包まれます。
イベントに参加しなくても、赤と白の服を着て家族や友達と過ごすのです。
BBQをしたり、ハイキング・キャンプ・公園に出かけるなど、それぞれ楽しみます。
カナダは1497年にヨーロッパの人たちに発見され、植民地となりました。
それまでカナダに住んでいたのは、先住民であるインディアンとイヌイットの人たち。
世界中でイギリスとフランスによる領地争いが激化していたのですが、カナダでもそれは例外ではなく、1763年にはフランス領からイギリス領となりました。
1867年7月1日、イギリス議会でカナダ政府を成立させたことで、イギリス連邦の一国となったカナダ。
そしてこの日が、カナダの独立記念日となったのです。
建国記念の日にまつわる行事|日本の建国を祝う過ごし方
紀元祭
「建国記念の日」には多くの神社で「紀元祭」が行われます。
「紀元祭」というのは、初代天皇として、神武天皇が即位したことで日本という国が建国されたことをしのんで、行われる祭典のこと。
日本にとっては、とても大切な例祭なのです。
「紀元祭」では、皇室の弥栄・国家の隆昌・国民の安寧・世界平和が祈念されます。
神前にお供え物をして、宮司さんによる祝詞の奉上、巫女さんによる神楽の奉納、参拝などが本殿で行われますが、神社によっては国家斉唱があったりと、神社ごとの特色があるのです。
本殿の外では多くの参拝者が楽しむことの出来る、イベントが行われているところもあります。
日本武道の空手や剣道の稽古の披露・ブラスバンドによる演奏・琴や尺八などによる演奏・神輿や踊りの奉納など、神様に楽しんでもらうために、芸能・競技を演じて奉納するのです。
なかには蹴鞠(けまり)をしている珍しい神社もあります。
日本の誕生祭ともいえる「紀元祭」なので、日本の歴史に思いを馳せながら参拝するといいものです。
建国記念の日に行われる奉祝パレード
「建国記念の日」には、東京の神宮外苑から明治神宮まで「奉祝パレード」が行われています。
NPO法人全日本鼓笛バンド・フォームバトン連盟・東京都大学吹奏楽連盟の協力によって、幼稚園児から社会人までの鼓笛隊・カラーガード・ブラスバンド・チアリーディングのグループに担ぎ手だけでも5000人からなる神輿渡御が加わった、総勢6000人以上の参加者で開催され、たくさんの人が見物に訪れているもの。
パレードの本体は、神宮外苑いちょう並木通りで出発式を行った後、青山通りを行進します。
各地から集まった神輿や山車が待つ、神輿隊と合流するのは、表参道。
その後パレード一行は、明治神宮の大前まで進みます。
明治神宮に着いた後は、玉串の奉奠・国家斉唱・パレード参加団体による演奏の奉納が行われるのです。
当日は交通規制がされ、小さな子どものかわいらしい姿から、迫力のある神輿を担ぐ男衆の姿まで見られ、とても賑やかなパレードとなります。
出雲大社との関係
「出雲大社」でも「建国記念の日」には「紀元祭」が行われますが、紀元祭の内容に関しては、別段変わったことはありません。
しかし「出雲大社」と「神武天皇」には深い関わりがあるとされています。
出雲国は「大国主命(おおくにぬしのみこと)」が納めてきた国です。
しかし「天照大神(あまてらすおおみかみ)」に国を譲らなければいけなくなり、いざ献上となった時、最後の決断を迫られたのは、「大国主命(おおくにぬしのみこと)」の長男である「事代主神(ことしろぬしのかみ)」でした。
出雲国を献上するという、重い決断を下した「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は自ら責任を取って、海に身を隠したとされた以降、神話には登場していません。
国を譲った代わりに、「大国主命(おおくにぬしのみこと)」は出雲大社に祀られ、「事代主神(ことしろぬしのかみ)」は美保神社に祀られることとなったのです。
そしてこの「事代主神(ことしろぬしのかみ)」の娘が、初代天皇「神武天皇」が皇后として迎えた「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」。
二人の子であり二代天皇「綏靖天皇」の皇后は「事代主神」の娘「五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)」、その子が三代天皇「安寧天皇」ですが「安寧天皇」の皇后は「事代主神」の孫娘「渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)」になり、その子が四代天皇「懿徳天皇」なのです。
このことから出雲の国の多くの神様たちと、神武天皇との繋がりは深く、日本の始まりにも大きく関わっているということがいえます。
日本書紀とは
「日本書紀」は720年に完成したとされている日本の歴史書です。
全部で30巻からなり、39年という時間をかけて出来上がりました。
神話時代の話は2巻、残りの28巻は初代天皇である「神武天皇」の時代から、第41代天皇「持統天皇」の時代までが書かれていて、漢文で綴られていることから、当時日本と交流があった中国などに、日本をアピールするために作られたものだとされています。
この中に「辛酉(かのととり)の年春正月、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)、天皇橿原の宮に即帝位(あまつひつぎしろしめす)。是の歳(このとし)を天皇の元年と為す」と記されていたことから、日本の始まりだとされたのです。
古事記とは
「古事記」は712年に完成したとされる日本の歴史書です。
全部で3巻からなっていて、たくさんの歌が載っていて、4カ月という短期間で作られました。
3巻中1巻は神話時代の話が占めていて、あとの2巻では初代天皇「神武天皇」の時代から、第33代天皇「推古天皇」の時代までが記載されているものになります。
内容は日本国内の出来事がほとんどで、天皇家の歴史などを中心とした日本という国について書かれている、国民向けのものだったとされているのです。
「日本書紀」と「古事記」は同じようなものと思っている人が多いのですが、実は全く違うもので、内容は「日本書紀」と「古事記」で真反対に描写されているようなところもあります。
これは「日本書紀」が海外へのアピールとするなら、「古事記」は国民向けだということで、作られた目的によって、同じ出来事でも焦点を当てる場所が違ったことが理由の一つです。
占い師 RINのワンポイントアドバイス「世界最古の建国を祝う「建国記念の日」で愛国心や国の成り立ちに思いをはせて」
現在では諸外国に比べると日本人は、自分の国のことを知らなかったり、建国を祝う気持ちが薄れてしまっているという寂しい事実はありますが、毎年2月11日の「建国記念の日」には、日本という国に気持ちを向けて、もっと日本への愛国心を育てていく日にしていきましょう。
日本という国への想いが、一人一人強くなることが、大切なことなのです。